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 博士臨終の奇探偵
 三津木春影
 

   三、枕頭ちんとうの象牙製の小凾こばこ……とらんとすれば大喝だいくわつ一聲

 一刻生死の境を爭ふ重症患者にて有りながら、家族を招かず、醫師を迎へず、親しき助手を室内に閉ぢ籠めて、而も病床に接近せしめず、自己の撰む人物を迎ふるべく二時間をむなしく待てよと言ふ……に奇怪なる病人の態度命令かな。博士の眞意何處いづくにありや。此危險なる症状の刻々に險惡になりかば如何いかゞせん。あゝ、法醫學の大家、科學的探偵の名手として聲望比類なく、幾多の難事件を解決し世の魑魅魍魎も其前そのまへ併息へいそくしたりし呉田博士も、斯る不測の病魔に呪咀のろはれて、怨みを呑んでかんとするか! 學界の大恨事だいこんじ、警察界の大損失、而して自分等は忽ち恩師を失ふことゝなるのである…………
 今から二時間――其間そのあひだ便々べん/\と空費せねばならぬとは實に非常識の至りである、と中澤醫學士は彼をおもひ此をおもうて煩悶懊惱したのであるが、併し彼の待遠まちどほしがつた二時間をる前に、彼は博士と再び言葉を交はすことが出來た。絶大なる驚愕おどろきもとに――今しがた博士にを閉められたをりのそれに次ぐくらゐの大驚愕だいきやうがくの下に
「……六時だよ……そしたらまた話をしやう……」さう博士に言ひ切られてから數分の間は、助手は室内に突立つたまゝ、默然たる病人を見詰めてゐた。病人は眉のあたりまで[#「眉の邊まで」は底本では「肩の邊まで」]布團を引被ひつかぶつて何うやら睡眠ねむりちたやうである。本でも讀んで待つてゐろと言はれたけれど、これが落着いて本をひらいてられる場合であらうか。で、彼は靜に室内を歩き始めた。歩きながら、四方の壁に飾られた有名な惡人の肖像畫を呆然ぼんやり眺め廻りなどした。やが目途あてどもなき彼の室内巡視の足はストーブの前に來て停まつた。暖爐棚の上には、數本のパイプ、煙草入、注射器、小刀ナイフ短銃ピストル彈藥筒だんやくとう、其他混雜ごた/\した物が載つてゐる。其等それらの諸道具の中に、ふと目にまつたのは、象牙製の黒白混りの一個の小さなはこである。横にれる引蓋ひきぶたが附いてゐる。何となく小奇麗な[#「小奇麗な」は底本では「小倚麗な」]可愛かあひいらしい函である。
「何だろう――」
と助手は思はず手を延べて夫を取り上げた。其瞬間である、絶大なる恐怖の叫びが彼然とつぜん彼の耳をつんざいた。街路とほりまで聞えるほどの大叫喚だいけうくわんである。助手の血は一に凍り、髮は逆立つ思ひがした。ハツとして振返れば、博士の痙攣的の顏色がんしよくと、狂暴なる眼付とが眼に入つた。助手は麻痺した姿かたちで、くだんの小函を手にしたまゝ突立つてると[#「突立つて居ると」は底本では「突立つた居ると」]
「下におけ! 中澤君、下におけ! コレ、早く元の所へおけ!」
と博士がわめくので、何かは知らず、其命令通りに暖爐棚の上に小函を返せば、博士は又もドツカと枕にかしらうづめ、ホツと安心の息をきながら
わしは自分の道具に手を付けられるのが……そ、それが嫌いぢや……き、君は其癖を承知であるのに……い、醫者であるのに病人をびつくりさせ居つて困るぢやないか……そ、そこに温和をとなしく腰掛けて……私をゆつくりやすませてくれ!」
 此出來事は助手の胸に言はんかたなき不愉快の感情をみなぎらせた。
「先生は一體何だつてあんなあらつぽい、譯のわからぬ亢奮かうふんをなさるんだらう……それからあのまア亂暴な言葉……日頃の恭謙きやうけんな先生にも似合はぬことだ……こりやア餘程精神がどうかして居られるわい!」
 凡有あらゆる零落のうちで、氣高き心が破滅しゆくほど哀しきはない。助手は無量の感慨を以て、約束の時間の過ぎ去るを待つた。博士も同じく大時計のおもて凝視みつめてゐたらしい。その針が六時を指すや否や、相變らずの狂的の態度にて口を切つた。
「そ、そりや六時ぢや……中澤君……き、君はポケツトに小錢を持つてるか。」
「持つてゐます。」
「銀、銀貨は?」
「少しは有ります。」
「五十錢銀貨は?」
「五つばかり有りませう。」
「あゝ……少い、それでは少い! 生憎だよ、中澤君!……が、し、仕方がないわ……五十錢銀貨をば皆、き、君のチヨツキの右のポケツトに入れてくれ……それから……それから……殘りの金は、殘らず、左のズボンの懷中かくしに入れてくれ……さう/\……有り難う……それで、き、君の平均が取れるといふものぢや。」
「いよ/\氣が變だ!」
と助手は思つた。博士はブル/\とからだ身慄ふるはし、咳嗽せき啜泣すゝりなきとの間のやうな聲の調子でしんから苦しさうに、
「さ、さて中澤君、が、ガスを點けておくれ……だが……火を出しすぎては不可ぬよ……少しのでも丁度半分頃の見當で……充分氣をつけてね……あゝ、有り難う……そこ、そこ……それで結構……いや、窓の日覆扉ひおほひどを閉ぢんでも宜しい……そ、その代り……此テーブルの上へ……私の手の屆くところへ……彼處あそこにある手紙の道具をおいて貰いたい……さう、さう……今度はあの暖爐棚の上にあるゴタ/\した物をこつそり取つて……そこに角砂糖挾みがあるが……さう……そ、それで以てね……あの小凾の蓋の端を掴んで明けて……さう、さう……そのまゝ其テーブルの書類の間へ小凾をおいて……ウム、其通り……さア中澤君……これから行つて……京橋南紺屋町卅二番地へ……そこの榛澤はんざはてつ一といふ者を迎へて來てくれ給へ……」


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