博士臨終の奇探偵
三津木春影
一、キウビヤウ、スグカヘレ……中澤醫學士急遽歸京
東北線の上り列車が今上野驛へ到着した所である。都は梅花綻び、楊柳芽む春なれど、陰欝寒冷な青森の方から來た汽車の屋根には、雪溶けの名殘の潤りも見えるやうな日の午後であつた。ドヤ/\と雪崩のやうにプラツトホームへ吐出された乘客の群の中に中澤醫學士の洋服姿が混つてゐた。彼は某用件取調べの爲め一週間ばかり福島地方に出張中であつたのを、今黎明呉田博士邸よりの急電に接し倉皇として歸京したのである。電報には「キウビヤウスグカヘレ」とあつた。博士の急病……あの健康な博士が急病……何の病氣に取りつかれたのであらう。電報にて呼び返すくらゐでは餘程の重態であるかも知れぬ。
醫學士は憂慮の眉を顰め、小鞄を小脇に、焦つたき群衆を押し分け/\、漸く改札口を出ると其處に若い小間使が一人迎えに來てゐてくれた。
「おゝ、お光さん、迎ひに來てくれたか。して先生が御急病なさうだが、どんな御容體かね。何時からお惡くなつたのかね。」
小間使ひの白い面は甚くも曇つてゐる。
「まアお歸京下すつて一安心致しました。中澤先生、家の先生は御重態なのでございますよ。ツイ二三日前からお寢み遊ばしたので厶いますけれど、急にドツとお惡くなつて、ほんとに今日か明日かとハラ/\致す位で厶いますの。それでゐて、誰か別に御醫者樣をお呼び致しませうと申上げてもお聽入れなさいませんの。堀樣(實驗室受持の助手)も御歸國中で厶いますし、勇樣(博士の令息)は熊本の高等學校でゐらつしやいますし、只今家は私とお稻さんばかりで厶いませう……ですから何人かへ御知らせ致しませうと申し上げますのですけれど、それもお許しなさいませんところ、今朝なぞ御容體を見ますと、※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]骨は飛び出し眼は硝子のやうに光つて居りますので、私もう堪まらなくなりましてね、先生、もう先生がお許しなさつてもなさらなくても私は直ぐ御醫者樣をお迎へ致しますと申上げますと、そんなに言ふなら中澤君へ電報を打つてくれと初めて仰有いましたので、早速あのやうな電報を差上げたわけで厶います。」
醫學士は愕然として氣もそゞろに「して初まりは何うしてお病付きになつたのか。何の御病氣なのか。熱でもお高いのか。」
「さア、其邊は私にもよく解りかねますけれども、何でも四五日前に御用で横濱へゐらしつて、それからお惡くおなりになつたので厶いますよ。お寢みになつたのが一昨々日の夕方からで、それ以來少しもお動きになりません。もう三日といふものお粥はおろか、湯水も召上りませんの。」
「それは容易ならぬことだ! なぜ誰か醫者を呼ばないのだ。」
「アラ、只今申上げました通り、先生が何うしても御聽入れ遊ばさないので厶いますもの。あの頑固な先生でゐらつしやいませう、私なぞには何處迄もとお勸めする力は厶いませんわ。兎に角びつくり遊ばすほどの御重態でゐらつしやいますよ。」
聞けば聞く程心もとなき師の容態、一刻も猶豫はならずと、彼は直ちに自働車を雇ひ、高輪の邸へと疾驅させた。