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 まだらの蛇
 高等探偵協會
 

   五、高見澤夫人の遺言状
……双兒の結婚費は各二千五百圓

 て其巨漢きよかんの服裝はと見れば、黒の山高帽に長いフロツクコート、膝をも隱し長靴に、手には狩用の鞭を打振り打振り、大きな顏は日にけ、不愛皺は顏一面に波の如く刻まれて、深く落ち窪んだ氣味惡い眼で、私達二人をジロ/″\と見廻す相貌かほつきは物凄く、肉の落ちた高い鼻は猛禽鳥まうきんてうのやうなけはしさである。
 私達二人が密談中のつつき開けて、扉の外に突立つたまゝつと室内を睨んだ此老人の顏の物凄さと云つたら一と通りではない、何か心中に深くおこつて居るやうな事件でもあると見えて、猛禽鳥のやうな險しい花を蠢動うごめかし、下唇を噛み締めて、齒をむき出し、一文字形の眉をしかめて、何か云はうとするのを、憤怒の爲に舌の先が剛直こはばるのをこらえ、堪えてゐるやうに見える。
 やがて、一足進みいづると、
男「何方どつちが緒方といふ人かな。」と其男は喚く。
緒「わたくしが緒方緒太郎です。そして貴下あなた?。」
男「乃公わしは都築郡の高見澤信武だ。」
 緒方氏は急に丁寧な言葉や態度で、
緒「ハハア、左樣さやうですか。サア何卒どうぞお掛け下さい。」
高「いやそんな事は如何でもい。乃公わしの娘が來た筈だ。わしは跡をつけて來たんだ。君に何を、んと話したか、サア聞かせて呉れ。」
緒「今年は時節はづれに寒いです。」斯ふ云つて緒方氏は聞えぬ風をした。
高「オイ、娘はどんな話をしたのだと云ふのに。」
緒「併し躑躅つゝじはもう咲きめたと云ふのに。」
 高見澤信武は溜り兼ねて、手にした鞭を打振り、憤然として一足進んだ。
高「よろし、貴樣は乃公を誤魔化す積りだな。惡黨奴あくたうめ干渉好ですぎものきの緒方!。」
 緒方氏はこれを聞いてニコ/\笑つた。
緒「アハハヽヽヽ貴下のお話は仲々面白いですな。お歸りの時には戸をしめて行つて下さい。隙間の風は寒いもんですからね。」
高「出て行けと云はんでも用さへ濟めばサツサト出てく。貴樣はわしの仕事に干渉でしやばるな。娘は確かに此家こゝへ來たに違ひないんだが、若し間違つたことをしたら承知しないぞ。よく氣を附けろ。」と云ひながら、急に走り寄つて鐵の火掻棒ポーカーを取上げ、針金の樣に折り曲げて、
高「これを見ろ。貴樣なんぞ乃公おれに抵抗が出來るもんか。」と嘲笑あざけりながら悠々と立去つた。
 緒方氏は笑ひながら、「可哀相な人物だな。僕は身體があんなに大きくないが、併し先生が今少し長く居るなら、僕の握力ちから彼奴あいつの握力より弱くないと云ふことを見せてやるのだつたらうに」。と打笑ひ、曲げられた火掻棒ひかきぼうを取上げ、苦もなく眞直ますぐに伸ばした。
緒「サア和田君、僕等も朝食あさめしを濟まさう。それから遺産處分登記所へ行つて見やう。何か新研究にあたひす可き此事件の關係を發見するかも知れないからね。」
 緒方氏は斯ふ云つてカラ/\と打笑ひ、火掻棒ポーカーをストウブの以前もとの位置に置き、
緒「ねえ和田君。彼奴あいつが僕等を探偵と間違えるのは實に失敬極まる次第だ。併し君此事件は仲々興味のある面白い事件だぜ。可哀想に蓮子さんはの先生に跡をけられて居るんだ。併し蓮子さんの無用心に對し難儀をかけさせないやうにしなけりやならん。それは僕等の責任だからね。」
 そして私達二人は種々いろ/\と此事件に就て語り合ひながら朝食あさめしを終へると、緒方氏は直樣すぐさま戸外へ出かけて行つた。
 緒方緒太郎氏が朝食後あさめしご出て行つて歸つて來たのは午後一時であつた。氏は手に青紙を一枚持つて居たが、其上には文句と數字とが書いてあつた。
緒「僕は高見澤婦人の遺言状を見たが、夫人の死亡なくなつた當時は年に一萬圓許りの收入みいりだつたが、今では農産物の相場の下落の爲に七千五百圓以下となつてゐる。それに娘の結婚費には二千五百圓づゝ請求する權利が娘達にはある。そこで二人の娘達が結婚するとなれば、老爺をやぢさん喰扶持くひぶちに離れなきやならぬとも限らぬ。」
「例へ一人にしても隨分堪えるからね。サア僕の調査は無益ぢやない、老爺さんに僕等が關係することを知られた以上は、愚圖々々ぐづ/″\しちやられぬ。直ぐ出掛けるとしやう。和田君、ピストルを一挺御用意を頼むよ。何しろ火掻棒ポーカーを曲げる先生なんだからな、ピストルの御見舞が先生に相當して居るよ。」
 私達二人は今發車といふ時に、中央停車場に駈け附けて早速國府津こくふづきの列車に飛び乘つた。間もなく教へられた停車場に降りて馬車を雇ひ、都築郡へと馭者に命じて急ぎに急いだ。緒方氏は先刻から帽子を前下まへさがりにかぶあごうづめて默想してゐたが、やがて何者をか發見したやうに私の肩を叩き、「あれを見給へ」と前面を指した。見ると老木おいぎの茂つた丘の上に、高い屋根や古風な破風はふうが見える馭者はそれと見るより、
た「あゝれは高見澤家たかみさはさん邸宅やしきです。」
緒「ハハア、彼れが左樣さうか。成程普請をして居るな。彼家あすこへやつてくれ。」
[#「た」は底本では「緒」]「彼家なら、向ふに廻るのが眞實ほんとうですけれど、此阪このさかを登つて上の野原を徒歩おあるきなさる方が近道です。ホウラ、今女が歩いて居る、彼所あすこが裏門です。」
 緒方氏は手を翳して、
緒「あの女は確に蓮子だ。それではおまへの教へた通り裏門から行かう。」と云ふと、馭者は心得て阪の下に私達を降ろし代金を受取るや否や、忙しそうに元來た路を歸つて[#ルビの「ゆ」はママ]つた。緒方氏は阪を登ると蓮子に近寄り
緒「ヤー、これは蓮子さん。今朝程は失禮致しました。丁度御約束の通り參りました。」
 蓮子は嬉しさうに
蓮「マアうこそ。都合は大變宜敷よろしふ御座います。繼父ちゝは東京へ出掛けまして夜でねけりや歸りません。」
緒「アヽ左樣さやうですか。實は今朝程高見澤さんの御來訪を受けました」。と無雜作に語りながら、眼を凝つと對手あひてに注ぐと、果して蓮子は唇の色まで變へて打驚いた。


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