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 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        一〇七

 讀者、余は何人なんびとにも見られず、咎められずして安全に寧府ねいぷるを立去りたり。かねて余がの船長羅浦らうらに頼み、シビタゆきの船に乘込む可き手續きを定め置きし事は讀者の記憶する所ならん、余は夜の明けぬうちに其船に乘込みたり。去れど其船の船長は勿論余を笹田折葉とは知らず、又余が充分に口留錢くちどめせんあたへ置きし事なれば余の何者なるやを問はんともせず、無言に余の荷物を余に渡し、海路靜かに余をシビタまで送屆おくりとゞけたり。
 シビタより獨行どくかうして余はレダホルンに到り、レダホルンより商船に乘込みて南亞米利加みなみあめりかに至り更に又墨西哥めきしこを横切りて北米國きたべいこくに移り、初めて我が身を落着おちつけたるは余が復讐を果してより八ヶ月ののちなりき。
 北米國きたあめりかの樹木最も深き處、地味最もゆたかなる處、景色けいしよく最もなる處に余は幾町の土地を買ひ、閑雅かんがなる家を建て、一僕を雇ひ一馬を買ひ、みづから耕して自ら食ひ、義理を知らず浮世を知らず、心に又と愛情と云ふ者の入來いりきたらぬ備へをなし、女も見ず小兒こどもも見ぬ樣に世を送れり。余が庭には高く低く唯だ松柏しようはくの茂る有るのみ、花と名の附く物は草花さへもうゑしめず、して薔薇のるゐなどは余が家より幾町四方、目の屆く限りに無し、偶々たま/\余が田のあぜなどに豆粒ほどの蕾持つ草の有る時は、余は其の開かぬうち、花と爲らぬうち、無慈悲に摘捨つみす揉摧もみくだき、其の根を斷ち其くきを折り、余が足に蹂躙ふみにじりて安心するのみ。讀者、余を執念深しと云はゞ云へ、余は愛と云ひ慈悲と云ふ分子ぶんし悉く那稻の爲に摘捨られ揉摧かれ、此上幾年を經て再び余の心にやさ可愛かあゆき愛情の波打つまでは、余が那稻よりかうむりたる損害はきえざればなり。
 浮世を全く忘れしとは云へ、猶卅歳の血氣壯けつきさかり、仙人とは成果なりはつる能はず、智慧も有り身體しんたいの筋力も有り、資本も有り、再び世にいでられる時あらば、奮然として人生の戰場に打ていでんとは余が心の奧底に横たはり、猶ほ何人なんびとにも洩さゞる秘密なり、政治家として打ていでるか實業家としてか、宗教家としてかた旅行家、文學家としてか、[#「研のつくり」、第3水準1-84-17]は總て未定なれども兔に角、戀人としてに非ざる丈はたしかなり。
 世にいづる心あり未だ全く余と離る可からず、去れば余は其好機會を見逃さじとの了見にして新聞紙だけは取集めて讀通すに曾て「伊太利いたりおける大不思議」[#「大不思議」」は底本では「大不思議」]と題し貴族笹田折葉と云ふ者が婚禮のに花嫁と共に消失きえう寧府ねいぷる全市否伊太利いたり全國の人の噂と爲れる旨しるせるを見たり、余は宛も他人の事の如く顏色も變ずして讀終りしが、其一節には宿屋の主人の費用を惜まず余の行衞ゆくゑさぐれりとの事も有り、又警察にて莫大の懸賞にて余に關はる一切の報知はうちを募れりとの事も有り、余の從者たりし瓶藏も一方ひとかたならず心配して奔走せりなどの事も見えたり、是等は余が豫てかくあらんと推量せし所なれば余は殆ど何とも思はず、夫より又幾月を經たる紙上にの一節あり。
近來の大不思議と噂高かりし伊國いこくの貴族笹田折葉伯夫妻の行衞若し今後一ヶ年にて分らぬ時は全く死亡の人と見做みなし其夫人に屬する羅馬内家の家屋財寶其他一切の者は總て伊國政府いこくせいふに沒收され、皇室の物と爲る可し云々。
 余は之を讀み初めてホツと安心したり、今までたゞ一つ余の心に掛りしは、先祖代々余にまでつたはりし羅馬内家が、余波漂に至りて絶亡たえほろび又相續者無きに至るの一事なりしが、余の相續者は實に伊國いたりやの皇室なり、伊太利いたりや帝國を以て余が家の後嗣あとつぎと爲す、余に取りて此上の名譽此上の滿足あらんや、余が先祖累代の靈も必ず地下にて喜ぶならん。

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 記し終りて思ひ見れば人生の大事だいじ婚姻より大事なるは無く、婚姻の大事、心より大事なるはし、余が如きは實に女の心に僞りの有るを知らず、美に迷ひ情に迷ひたるが爲め、可惜あたら生涯をあやまりたる者なり、外面如菩薩げめんによぼさつ内心如夜叉ないしんによやしやの語は佛教者の口に聞けども、那稻の如く外面の美くしく、那稻の如く内心の恐しき者三千世界に又とあらんとは實に思ひもよらず、彼れが此世を去るさいまでも口に僞りの語を絶たず、余と爭ひ余をあざむき、あまつさへ余を殺しても逃れんとせし樣を思ひいだせば、余は死して冥途に至るとも猶ほかれの罪を赦す能はず、地獄の底までもかれを追詰め、僞り深きかれの亡魂を攻盡せめつくさんと思ふのみ、讀者よ、若し婚姻す可き美人に逢ふ時は、之を愛するの前、之に迷ふの前、之に溺るゝの前、之に一生をたくするの前、づ此白髮鬼傳はくはつきでんを一讀せよ。


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