白髮鬼
黒岩涙香
一〇五
余は那稻の氣味惡き笑聲にて彼れが全くの狂女と爲り了りしを知りたれば「那稻、那稻」と呼試みるに、彼れ余が方に振向たれど何の返事もせず、唯だニヤ/\と笑ふのみ、今まで余に攻められし苦痛も、發狂の爲め幾分か忘れしにや、青かりし頬の色も日頃ほど赤くなり、恐れに頽れ居たる其顏に異樣なる美しさを現し來たれり、アヽ余は彼れが發狂する迄に攻て攻て攻盡せしか、彼れが余の爲めに其智力を失ひしは余が彼の爲に愛情を失ひしにも匹敵す可し、余の復讐は是にて充分屆きたる者なり。
斯く思へば心地好き事限りなけれど、今余が目の前に徘徊へる此の狂女に對しては又一種の憐み無き能はず、彼れは今までの那稻とは全く別の女なりと云ふも可なり、今までの那稻が胸に充滿たる汚れし慾も此狂女の胸には無し、人を欺き世を欺かんとする今までの那稻の奸智も此狂女の知る所に非ず、法律も道徳も狂人には罪無しと定め有る程なれば、余如何に執念深くとも最早や此狂女を恨むべからず、狂女を墓窖に閉込て立去りては餘り邪慳に過る故、何とか工夫無かる可からずと、余は南方暖國の人だけに怒に強く又憐みに強く、今は去るにも去る能はず、若しも眠りたる人を呼起すが如く余が聲にて彼れの發狂を呼覺す事は出來ぬにやと、再び高き聲を發し「那稻/\」と叫びたるに余が聲、未だ那稻の耳に達せざる間に、又も孰れかの所にて地軸の碎くる如き凄じき響あり、穴の中まで鳴動するばかりにて余が聲は全く其響に壓せられたり。此響是れ何の爲め何の所より來るにや、或は今宵の暴風の爲め近傍の崖など崩るゝならんと思へば、余は不安心の思ひに堪ず、戰きながら耳を澄せり。
去れど狂女は此響さへも耳に入らざる如く、平然として鼻歌を謠ひ初めたれば、余は又も聲高く他れを呼べり、他れ何の感も無き事前の如し。謠ひながらも再び海賊の寶物箱に立寄りしが、今度は中に古き鏡の有りたるを取出し、最嬉しげに之を持て余が脱出し彼の破棺に腰を掛け、宛も坐し慣れたる化粧室に坐す如く落着きて、或は其の亂れたる髮を掻上げ、或は其顏を撫で餘念も無く己が姿の美しさに見惚れたる者の如し。
嗚呼余は如何にせば可ならんか、最初那稻を斯せんと思ひし如く、此狂女を閉込めし儘に立去らんか、否々狂女の何事も知らぬに乘じ、法律も道徳も罸せざる所にまで我が罸を及ぼすは人たる者の道に非ず、左すれば此狂女を保護し連出して正氣の那稻に返らせたる上再び茲に連來らんか、夫も出來得る事に非ず、去ればとて此儘彼れが正氣に返り來るを待たば何時の事なるや知る可からず、余は※[#「てへん+當」、第4水準2-13-50]と當惑し、暫しが程思案に暮れしも、兔に角今一度狂女の傍に返り充分狂女の身を掻動かして見ん者と漸くに思ひ定め、彼れが方に一脚歩み出んとするに此時又も彼の凄じき物音聞えしが、今度は前二回より猶ほ強く、猶近く、殆ど余の立てる足許まで地響きして聞ゆると共に、今まで燃殘りし幾本の蝋燭も一時に消え、墓窖の中、全くの闇と爲れり。
實に是れ何の爲にや、殊には孰よりか土砂の如き物バラ/\と落來り、四方一面に塵立ちて目にも口にも入らんとする如く思はれたれば、余は暫しがほど闇の中に目を塞ぎ、四邊の少し靜るを待つに窖倉の外に吹狂ふ風の聲益々荒く聞ゆれど、彼の狂女は如何にせしか、鼻歌の聲も止みて、寂然と靜なり。彼れ猶ほ闇の中に鏡を弄び、破棺に腰掛けし儘ニヤ/\と笑居るにや、夫とも今の物音に驚き壁の邊にでも立行きしにや、余は氣味惡さに堪へず再び衣嚢より燐寸を取出し、摺照して見廻すに、朦々たる廣き闇を一本の燐寸にて照し盡す可くも非ず、唯此の光にて今消し蝋燭の一本を探出し得たれば、之れに火を點して高く我首の上に差上げ、眸を凝して今まで狂女の居し所を見るに、個は抑も如何に、個は如何に、余は唯だ餘の恐ろしき有樣に我知らず一聲高く「キヤツ」と叫びぬ。