白髮鬼
黒岩涙香
一〇四
アヽ讀者那稻の兇、那稻の惡、茲に至りて益々驚く可きのみ、彼れは逃るゝに道無きに及び漸くに其の罪を悔い、余に打詫るかと思へば、悔しも僞り、打詫るも亦僞り、隙を見て余を殺さんとす、彼れ惡婦としては惡と云ふ惡悉く備はれる惡婦なり、余は捻取し短劍を鞘に收め彼を其所に突飛して、
「コレ那稻、汝が何と謝罪ても赦さぬと云ふは茲の事だ、隙を見て所天を殺さうと云ふ了見が有つて何して貞女に成れるか、首尾能く己を殺したなら己の衣嚢から此墓窖の鍵を取出し、己の死骸を茲へ殘して其儘汝は戸を開いて家に歸り、其の巧なる辯口で何とでも世人を言くるめて再び波漂か折葉の樣な、欺し易い所天を探す積りで有たのだらう、生憎己の力が強く汝の手に合なんだは誠に氣の毒で有たなア」と心地好く嘲りて、余は猶ほ彼を罵らんとするに此時彼れは何故にや聲高く「アレ魏堂が來た、魏堂が來た」と打叫び、背後の方に逡巡みたれば余はその仔細を悟る能はず、言葉を停めて訝り見るに、彼れ戰きながら一方の薄暗き所を指し「アレ彼所に魏堂が居る、魏堂が居る、恨しげに、睨み乍ら、アレ徐ろ/\と寄て來る」と爾も恐しげに呟けり。
扨は彼れ散々余に責られし餘り、神經の仕業にて魏堂の姿まで其目先に浮びし者か、余とても今は心の掻亂れたる半なれば余の神經にも其姿の見ゆるも知れずと、余も同じく其方を見詰れど余が目には何も見えず、其中に那稻は宛も魏堂の姿より避けんとする如く兩の手を擧げて自ら其身を遮り「アレ、許してお呉れ魏堂よ、爾う妾を打擲しては、コレサ堪忍して堪忍して」と叫ぶと共に、眞實誰かに打倒されし如く其所に※[#「てへん+堂」、第4水準2-13-41]と倒れぬ。
愈々以て彼れの神經に魏堂より責打擲せらるゝ如く思へる事明かなれば余もゾツと身震ひし、宛も生たる人に物云ふ如く、
「コレ魏堂、汝と余の仲[#「余の仲」は底本では「余の中」]を割き親友を敵同士に仕て仕舞た惡女那稻は、余が充分に責懲したから汝も安心して地下に眠れ」と言渡し、更に進み寄て倒れし那稻の身を檢むるに、アヽ彼れ死したるか氣絶したるか息も無く脈も無し、多分は氣絶なる可けれど此儘に捨置かば何うせ死るに極りし者ゆゑ、氣絶も死せしも同じ事なり、最早や余は此所に用事なし、余の復讐は那稻の縡切と共に全く終りし者なりと呟きながら立去らんとするに、余が心には一點の憐みも無く一點の悔も無し。曾て決鬪にて魏堂を殺せし時は、敵とは云へ幼き頃仲能く暮せし時の事などを思ひ出で、幾分の憐みを催したれど今は少しも爾る事を思ひ出さず、魏堂が余に背きたるも、畢竟余の妻那稻が魏堂を誘ひしからの事、爾すれば那稻の罪魏堂より重しと初より思詰め今も猶ほ爾思ふ事なれば、唯だ待に待たる復讐の事終て、眞實氣味好きを覺るのみ。
余は足の先にて再び他の身體を動し見るに、感じ無き事本の通りなれば「汝の腐た了簡と共に身體も早く腐て仕舞へ、アヽ心地好し心地好し」と打呟き、イザ立去らんと石段の所に至るに、吹く風は益々荒く、鐵の戸扉をガタ/\と動すは、天も余が爲に怒り、那稻の罪を罵るにや。
折しも風と共に物凄く聞ゆるは、余が那稻と二度まで婚禮せし茲より程遠くも有らぬ彼のサンゼナロの寺の鐘、夜の一時を報ずるなり。爾すれば余と那稻は既に婚禮の宴席を二時間も外せし者なり、來客一同主人夫婦の居無く成しを見、定めし打驚き打怪みて尋つゝ有るならんが、如何ほどに尋ぬるとも茲まで尋來る筈なければ顧みるに足らずと余は胸に含きて石段に片足掛け再び那稻を見返れば、此時彼れ正氣に返り蹌踉として起直れり。されど彼れ余が此所まで去しには氣附ぬ如く、獨り口の裏にて何事をか言ながら其顏に亂れ掛る髮の房を手に取て燈の傍に寄行つ、自ら我髮の美しさを喜ぶ如く倩々と眺めし末、聲を放つて面白げに打笑へり。
アヽ此の恐る可き窖の中にて而も其身が逃るゝに道無しと極まりたる上に及びて打笑ふとは何の事ぞ、余は彼れが余に切て掛りたる時よりも猶ほ一入打驚き、猶一入氣味惡く思ひ、再び眼を張開くに益益以て怪む可し、彼れ嬉しさに堪へぬ如き笑を浮め、先づ丁寧に其衣服の襟を掻合せ、靜に彼の海賊の寶物箱に立向ひ箱の中より一々に寶物を取出し、※[#「研のつくり」、第3水準1-84-17]を悉く己が衣服に着初めぬ、アヽ彼れ孰れよりか逃れ出づ可き工夫を案じ、己が力に逢ふ丈の寶物を持ち此穴より立去る氣にや、見る中に彼れが全身は眞珠、紅石、夜光珠などにて隙間無きほど輝く迄に至りしかば余は愈々其意を怪み、我知らず彼れが方に近寄らんとするに、不思議や此時、孰にか遠き地震の響きの如く凄じき物音あり。風の聲か山の音か、多分は吹荒む暴風の此墓窖の孰れかを吹崩す響と察せらる。アハヤと思ふ暇も無く鐵戸の隙より洩入る風、惡魔の怒る如き聲にて余が顏を掠めて去り忽ち蝋燭の幾本を吹消したれど、那稻は是にすら驚かず、猶嬉しげに寶物を弄び再び聲高く打笑ひたり。笑ふ聲は平生の餘韵なくして、老猿の叫ぶに似たり、アヽ余は知れり彼れの笑ひは全く狂女の笑ひなり、彼れ餘りの激動に今此際に發狂せしなり。