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 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        一〇三

 心を入替へ貞女と爲り、今までの罪を償はんと涙ながらに打詫うちわびる那稻の言葉是れしんに彼れの眞心なるや、余は殆ど測り兼て猶ほ默然と控ゆるに、彼れは後悔の念にたへざる如く打萎うちしをれながら、又愛情に堪ざる如く益々密に余に抱附き、涙湛なみだたヽえたる其眼を上げて余を眺め、其の柔かなる唇をば余の接吻を迎へんとする如く動かし初めぬ。
 余は猶も無言の儘なるに彼れは絶入たえいる如き柔かなる囁き聲にて、
「御覽なさい、私しの容貌は未だ衰へません、此美しさは是から先、唯だ貴方一人の美しさです」と云へり、アヽ其心の誠なるや僞りなるやは今更ら問ふに及ばず、又今更ら見破るに及ばず、彼れが今まで己れを愛する者に向ひ如何ほど罪深き所行をせしやを思ひ、又彼れが唇に僞りのほか云ひし事無きを思へば、余に是等の甘き言葉に引入ひきいられんや、余が艱難に艱難を重ねたる復讐は此場に及びて豈に一寸だも弛む可けんや、余がはらわたにはたゞ我有爲わがいうゐの一生涯を人面獸心の一婦人の爲めあやまち終りたる悔恨の念は有れど、其の人面獸心の一婦人が今に及びて猶ほ余を籠絡するかと思へば、腹立しさの又一入ひとしほ加はるを覺ゆるのみ、爾れば余は最悲いとかなしと腹立しげなる聲にて、
「ナニ美しさ、なるほど汝の美しさは猶だ衰へぬかも知れぬ、顏ばかり美しくとも心が醜ければなんの甲斐が有らう、アハヽヽ那稻、心を入替へ貞女になるとは、最う云ふ事がおくれたよ、其言葉が汝の口から今一年イヤサ今半年早く出たなら、汝は當國第一の幸福を得て生涯を安樂にくらされた、ゆるしてれと言た所で今は赦し樣の無い時だ、赦しかたの有る樣な輕い罪や輕いうらみなら其言葉に面じて、赦しても遣りたいが、汝の罪と此方このはうの恨は到底赦し樣が無い、赦す赦さぬと云ふ世間の罪とは罪が違ふ、赦す赦さぬにも赦し樣が無い、汝は唯だおれの宣告した罰に服し、此暗いあなの中でひとり苦んで死るばかりだ、是がのがれぬ運命だと斷念あきらめよ。」
 斷乎として言切るに那稻は猶ほ余が膝より離れもせず、あたか過去すぎさりし夢の跡を尋ぬる如く茫然として空中を眺むるのみ、彼れも云はず、余も云はず、二人無言のわざつとむるかと怪まるゝ程なりしが、外には宵の程より吹居ふきゐたる冬の風、今は暴風に爲りしと見え、鐵の戸の外にふきしきり吹荒ふきすさみ、近邊の樹木をならし枝を折り葉をとばす聲、宛も隔世かくせいの物音の如く聞え凄まじき事云こといはんかたなし。
 暫くにして茫然たりし彼れ那稻が顏に、忽ち電光のきらめく如く一種の決心、パツト現れいでたれば、余は怪み彼れ何事を思附おもひつきしやと推量する暇も無きに、彼れ素早く余の膝より離れ、余が腰に着け居たるのミラン製短劍を奪ひ取り其鞘を拔棄ぬきすて立上れり、アヽ彼れ、穴の中に朽ちく其身の運命の餘りに恐しく、遂に自殺して其苦痛を切縮むるに決せしかと、余が見て取るや取らぬ間に、彼れ癲癇てんかん病人の發するより猶鋭き聲にて、
なんだ赦し樣の無い罪だと、汝こそ赦し樣の無い罪だ、罪人め、サア此短劍で死で仕舞へ」と叫びつゝ躍りきたつて余に斬掛きりかけたり。
 アヽ惡女め、自殺する事かと思ひ萎らしゝと見て居たるに、自殺にあらで余を殺す積なるや、窮鼠却きうそかへつて猫をむ、太きも太き奴なるかな、余はハツと飛退とびのき樣[#「飛退とびのき樣」は底本では「飛退とぎのき樣」]はれたる棺の蓋を持ち、からくも我身を防ぎたれども、若し飛退く事たゞ瞬間しゆんかん遲かりせば肩先深く切附けられ彼れの邪慳なる唇にて氣味好しと嘲らるゝ所なりしならん。余は蓋を小盾こだてにして進み寄り、つひに短劍持てる彼れが手首を握り得たれど、彼れ日頃の弱々しきに似ず、必死と爲りて狂ふ爲めか、身を揉掻もが其力そのちから、強き事言はん方無かたなく、手首をしかと握られながらも短劍は容易に放さず、極めてわづかな間なれども殆ど人間以外の力を得て余に飛附き食附き、余が服を裂き余が肉を破り、壓潰おしつぶすにも潰し難し、余に若し一寸の油斷あらば、却つて彼れに切捲きりまくらるゝ程の有樣なれば余も實に必死に爲り漸くにして彼れを膝の下に組敷き其の手をねぢりての短劍を取返したり。余は猶ほ其怒りに乘じ彼れを膝下しつかより動かしめず、たゞさしに其首を刺殺さしころさんかと構へたれど、兇器さへ取り返せば手をけがすにも及ばぬ事、刺して一思ひに殺すより初めの通りあなの中に腐らせるが彼れに相當のばつなりと、たちまち思ひ返したり。


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