白髮鬼
黒岩涙香
一〇一
罵り懲す余が聲の鋭さと睨附る余が眼の凄じさには彼れ那稻敵し得ずして隅の方に怯み入れども、彼れが口には猶ほ余を言込めんとする毒語あり、彼れ泣き乍ら言葉世話しく「何も是ほど責られる罪は犯さぬ、所天に隱して外に情夫を持て居る女は世間には幾等も有る事だ、一人ならず二人も三人も情夫を持つ女も有るのに」と言返せり、アヽ是れ何等の暴言ぞ、何等の無禮ぞ余は殆ど彼れが舌を引拔呉んかと思ふ程に燥りつゝ、[#「「」欠字か]猶だ其樣な事を云ふのか世間の女が密夫を持つには、世間の所天が己の樣に其妻を責懲す道を知らぬ柄、己は世間の不義者達に見せしめの爲め汝を懲し此後又と不義をする者の無い樣に仕て遣るのだ、能く聞け那稻、汝は良心と云ふ者無く罪を犯して罪だとも思はぬか、世に奸淫ほど汚はしい罪が又と有うか、所天の家に住み所天の名を分ち、所天の大事を悉く任されながら其の所天の心に負き所天の妻を偸まうとする樣な所天の敵に内通し、一家を治むる身を以て所天の敵の玩弄と爲る、是が汚はしく無いと云ふのか、昔から一城を守る者が敵軍に内通するを此上無き罪として有る、妻にして他に通ずるは夫よりも猶罪が重い、城を守る者は一人で無い、千萬人の其中で獨り自分の身を賣る故、罪は罪でも城に取ては唯だ一部、後に猶だ其城を守る者は幾等も有る、妻は一家に唯一人其一人が一家に負いて他に通ぜば一家を誰が守るのだ人殺を大罪と云ふけれど姦通は人を殺し家を殺し所天の名譽を殺し生涯を殺すのだ、夫も唯だ己の腐た腸に充る腐た情慾の爲にするのだ、是れでも汝自分の罪が分らぬか、殊に汝は世間の婦人が幾人も密夫を持つと云へど、一人持てば其罪、千萬人持つも同じ事、一人だから罪が輕いと云ふ筈は無い、況てや汝は一度ならず二度三度まで此罪を犯して居る、波漂の妻として魏堂に通じ、魏堂の許嫁の妻で有ながら笹田折葉と夫婦の約束を爲し、其上又笹田折葉の目を忍び魏堂に何時までも妾の情夫たれと細々の手紙を送て有る、汝は纔の間に三人の所天を持ち其三人に悉く負いて居る、廣い世界に此樣な婦人が何所に在る三たび所天を持ち三度とも操を破る、此上永く活して置けば未だ幾度操を破るも知れぬ是でも自分の罪が分らぬか。」
余は殆ど我聲の枯るまで叫び盡すにアヽ蜂は死るまで人を蟄す其針を收めずとの譬への如く毒婦は死るまで其毒を收め得ぬにや彼れ猶ほ口の裏にて「罪で無い罪で無い、此身は罪を犯す心は無い美しく生れた爲め夫で男が迷ふのに、迷ふ男を罪と云はず美しく生れた者を罪と云ふのか、迷ふのは男の愚か、其愚さを此身が防ぐと云ふ事は出來ぬ、汝も此身に迷ひ魏堂も此身に迷ふたけれど此身から求めはせぬ、此身は魏堂を愛しもせず猶更ら汝を愛する者か、夫に迷ふた魏堂は愚人、汝は又罪人だ罪人だ。」
アヽ何所まで毒語を放つ者か、余は只呆れに呆れ果て、最早や此上言爭ふ心無し「爾だらうよ、愛と云ふ清い心は汝の樣な腐た身體へは神が授けて下さらぬのだ、愛の無のに愛の有る樣な言葉を吐き愛の有る樣な振をするから夫を即ち罪と云ふのだ、夫が即ち人を欺き操を破ると云ふ者だ、獸には慾が有て愛が無い、汝を人面獸心と云ふも茲の事、其樣な穢れた言葉を吐くだらうと思たから、其言葉が再び人間の耳に入ぬ樣に何時までも汝を此穴へ閉込めて置く事に極たのだ 那「エー罪の無い者を 余「無言れ、汝の不義の數々は悉く己の手に確な證據を握つて居るが證據は世間へ出て爭ふ時にこそ必要なれど、汝を[#「汝を」は底本では「汝は」]此穴で終らせるには不用だからサア悉く返して遣る」と云ひつ、余は那稻より魏堂に贈りし手紙を初め幾通を纒めたる一束を彼れが膝に投げ「人間は絶食しても一月位は生て居られると云ふ事だから、サア此穴の暗やみで今から一月其證據物を弄にし是で此身の不義の證據は世間へ一つも殘て居ぬと安心して居るが好い、其のうちには世間で汝を忘れるだらう、ドレ是で生涯の分れにしやう」と云つゝ余は立去らんとして先づ輝ける蝋燭のうち一本を吹消すに、那稻は宛も餓鬼の如く余が足に蹙り附き哀求する聲を張上げ、
「ヱヽ夫は餘り邪慳です、貴方は此墓窖から拔出たと云ひましたが、其拔道だけ教へて下さい。」
「汝を閉込まうと思たから其拔道は塞いで仕舞た、己が出口の戸に錠を卸して立去れば決して拔出る事は出來ぬ」那稻は聲を放て泣き「許して、ヱヽ夫ばかりは許して下さい、穴の外へ連出してさへ下されば何の樣な目にでも逢ます、私しの髮の毛を握み不義者の樣を見ろと寧府の町々を引摺て下さるとも厭ひません、其上裸體にして叩き捨ても構ひません、何うでも貴方の氣の濟む樣に、唯だ命だけ助けて下さい、濕た暗い、土臭い此穴で、ヱヽ夫ばかりは、ヱヽ餘り恐しい仕方です」と余が足に必死と取附き、蹴ても放れず振ども去らず。