白髮鬼
黒岩涙香
九七
「早く連出して下さい」と、必死になりて※[#「厥/足」、U+8E77、331-12]み附けども[#「※[#「厥/足」、U+8E77、331-12]み附けども」は底本では「蹙み附けども」]、余は何の返事もせず、彼れが恐れの益々深くなるに任せ置かんと、仁王の如く立しまゝ身動きもせで控ゆるに、暫くにして彼れ最早や堪り得ず忽ち余の身體より飛放れ、宛も余が若しや他人となりしには有らぬかと危む如く余を見上げ、
「コレ貴方、何う成つた、何故其樣に動きませぬ、何故無言です、マア何とか一言仰有つて下さいな、サア私しをお抱なさい、接吻なさい、何とでも好いから唯だ貴方の聲だけも聞せて下さい」と云ひ、泣出さん聲と共にブル/\其身を震はせるにぞ、最早や口を開きて好き頃と見、余は確と彼れの手を取り一絲も紊れぬ練固めし音聲にて、
「靜にしろ、茲は泣たり叫だりする場所で無い、今和女が見て取た通り墓窖だ、遂には和女の身を埋める所ろ、イヤサ和女の曾て縁附た羅馬内家代々の墓窖だ。」
是だけの言葉に彼れ那稻は泣聲も咽に塞がり、息さへも出ぬと云ふ如く、開きし口に聲も無く、唯だ魘はれし如き目を見張りて余の顏を眺むるのみ。
余は聲を繼ぎ、
「茲だ、羅馬内家幾十代の義人も貞女も皆此中に其亡骸を留て有る、今より一年に足らぬ以前、和女の所天波漂羅馬内が葬られたのも此墓窖だ、茲は波漂の居る所だ。」
是だけ云ひて、言葉の効目如何にやと余は暫し口を止むるに、那稻は一句一句に戰きて色を失ふのみなりしが、漸くにして、途切れ/\の聲を繋ぎ、
「貴方は、氣が違ひはしませんか」と云ひ、余が尚も無言なるを見て、恐々に躄り寄り「サア早く行きませう、此樣な所に用は無い、此上居ては壽命が盡きます、歸りませう、歸りませう、何の樣な寶物でも茲に在る物は要ません、サア、サア」と促すは唯だ墓窖と云ふ場所を恐るゝのみにして、未だ余が目的の之よりも更に恐しきを悟らぬと見ゆ。
余は再び彼れが手を確と取り、
「猶だ見せる物が有る、茲へ來い」とて、彼れを薄暗き隅に引けり、此隅は先に余を葬りたる破れし棺の在る所なり、余は其棺に指しつ「サア之を見ろ、之は何だ、分らぬならば能く檢めて見ろ、粗※[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]な薄板に釘を打た棺だらう、昨年コレラの病人を葬るに用ひた出來合の棺では無いか、蓋に月日を書き波漂羅馬内と記して有るは、和女の所天波漂を容て此墓窖に葬ツた其棺だ、ヱヽ何を其樣に驚くのだ、コレ蓋を見ろ、此通り破れて居る、誰が破ツた、誰がこの蓋を、ヱ、合點が行かねばソレ更に中を見ろ、中は何にも無い本統の空では無いか、此棺の中に入れた彼れ波漂は何所に居る、サア何所に、彼れは何所に!」
彼れは何所にと問詰むるに、今まで唯だ墓窖と云ふ場所をのみ恐れたる那稻の顏に又一種の新しき大恐懼を加へ來れり、身も魂も全く消盡すかと思はるゝばかり。彼れ手あれど捉ふる能はず、足があれど踏む能はず、沈む如くに其所に膝を折り、囈言に似たる聲にて空しく余の言葉を繰返し「彼れは何所に、彼れは何所に」と呟くのみ。
是までは余成る可く我怒りを推鎭め、我言葉を落着て言來りしも、最早や落着る必要なし、否落着けんにも落着け得ず、鋭き口調にて叱るが如く、
「サア何所に、何所に、汝の所天は何所に居るか、彼れ憐む可し、此穴に葬られる時までも其妻に未練を殘し、妻那稻の名を呼續で有たのに、其妻は彼れの爲に一夜の祈り一遍の回向も唱へず、操を破り慾に迷ひ、彼れが遺せし其家の床の上で其夜より不義を樂み、彼れを踏附け、彼を嘲り、爾して天罰の當らぬ者と思ふて居た、コレ那稻、彼れほど憐む可き善人が又と有うか、今彼れが何所に居るか、茲に居る! 茲に居る茲に、茲に!」と云ながら余は那稻に薄寄り、彼れを余が足許に引据て、
「コレ那稻、己の約束を忘れはすまい、婚禮すれば其夜の中に此黒い目鏡を外し、己の誠の顏を見せて遣ると云つた事を、其上又汝の爲に今夜は全く若返たト言た事は未だ耳に響て居らう、サア其約束を履行するは今茲だぞ」と云ひ、余は目鏡を外し、外套の襟を引下げ、蝋燭の光に向ひ充分余が顏を照し出して「サア、能く見ろ那稻、己の顏を、コレ二度まで己と婚禮した妻那稻、己の顏に覺えが有う、能く見ろ、今夜汝との婚禮は二度目の婚禮、曩の婚禮と唯だ己の名が變つたばかり、名は變つて人は同人、笹田折葉と云ふ老人は元からの汝の所天波漂羅馬内と云ふ當年卅歳の若者だ、此通り波漂は茲に居る、茲に、茲に、サア見ろ、サア!」と云ふうちにも恨みに光る余が眼は鋭く彼れの顏を射たり。