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 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        九四

 忍びいでたる裏口に、人の影更に無し、約束の二十分は大方經ちしと思はるゝに、那稻何故なにゆえきたらざるや、余は待遠まちとほく、又悶またもどかしく一分間も一時間より猶ほ永き心地せられ、斯するうちに若し人にでも認められては詮無きにと只管ひたすらに氣をいらだてど來ぬ人は致し方なし。
 舞踏室なる音樂は手に取る如く耳にり、躍り興ずる人々の足音さへあきらかに聞ゆるほど世界はさびて靜なれど、唯だ那稻の足音だけ聞えぬは如何にせしぞ、アヽ彼れつひきたらざるか、夫ともひそかにさとる所あり此間際に至りて余の手より脱せしなるか、疑ひ初めては勿々なか/\に、余は心も心ならず、一一度引返し彼れを引摺ひきずりきたらんかと迄に思へど、[#「研のつくり」、第3水準1-84-17]は云ふ可くして行ふ可からず、殆ど地團太ぢだんだ踏むばかりなる折しも、嬉しやサワサワと足にまとふ絹服の音と共に那稻の姿現れたり。
 彼れも余を見留みとめうれしきにや、宛も母の姿を認めたる小兒せうにの馳寄る如く早足に馳來はせきたる、其の姿を如何にと見れば、露國ろこくに産する貂鼠てんこの黒き毛皮にて作りたる外被うはぎを今宵の服の上に纒ひ、其下より時に夜光珠だいやもんど散々ちら/\と見ゆる樣、暗夜の雲のより折々星のもるるに似たり、外被の黒きに反映して一際目立つ白き頬も、つねよりくれなゐの色濃く見ゆるは、今まで充分に躍りし末、休むも無く急ぎ來りし爲にも有る可く、殊に心の一方ひとかたならず浮躍うきをどる爲なる可し。
「オヽ大層お待せ申しました」と細語さゝやきながら余が手を取て吸ひ、更に「[#底本では「「」欠字]此樣なふうを成さると貴方の背が高く見えます事、本統に血氣盛けつきさかんな少年の姿ですよ」と云ひ猶又「早く來やうと思つても躍が仕舞しまは無いのですもの、ですがれ程面白い躍でしたらう、貴方が一緒なら[#「貴方が一緒なら」は底本では「貴方が一諸なら」]好いのにと思ひました」とて、余が身體からだに寄添ふにぞ余は其手を取りて引寄せつ「だが何うしてはづして來た」「イエ躍が一段終つたから少し息でも繼ぐ振で室を出で、自分の室へ馳上かけあがつて此外被を着るが否やとんで來ました、オヽ呼吸いきが切れる、コレ此動悸を」と云ひながら余の手を外被の下に引込み、其胸にあてさせたり。
「だが、下女か誰かに見られは仕無しなかつたか。」
「誰が見ませう、最う晩餐の時刻ですから宿の者一同は其用意に取掛り、私しの侍女こしもとまで勝手へでも行たと見え、其姿も見えません。」
 余はホツと我が胸の安きを覺えぬ、すれば誰一人、余の拔出ぬけいでしを悟らぬ者なり、目的通り何人なんぴとにも知らさずして那稻を連去る事の出來る者なり「では行かう、サア」と云ひ、宛も一人の身體と見ゆるほど堅く那稻と抱合ひて裏口より裏庭を横切りつ、裏木戸の所に到り茲に暫く那稻を待たせ、余ひとり外に出で直ちに辻馬車を雇來やとひきたりて、先づ那稻を助けて乘らせ、次に余も飛乘りてグアルダの別莊まで遣て呉れと其馭者に命じたり。
 グアルダの別莊とはの恐ろしき墓窖はかぐらに最も近き人家なり、那稻は此名を初めて聞く事と見え「エ、何處どこの別莊です」と問へり「ナニ寶物を隱して有る所の少し手前だ」と答ふるに彼れ全く安心して箱馬車の後に身をもた[#「馮/几」、第4水準2-3-20]らせ輕く其首を余が肩に投掛けて、硝子窓より洩來もれく辻燈つじとうの光り時々に其顏を掠める如く照して去るに一任す、嗚呼是れ何等の風情、何等の赴き、余の外に見る人なく余の外に見せる人なし、余が物余が自由、余は茲に至りてこんはくも有頂天の外にのぼり、胸の波高く打てり、是れうれしさか然り嬉しさなり、生涯の大望たいまうに達し身も世も忘れたる嬉さなり、那稻の心持こゝろもち如何ならん、馬車の一搖ひとゆれ搖れる度に彼れの身は重く、重く、余が身にもた[#「馮/几」、第4水準2-3-20]れ來る、余は氣醉きゑ神迷しんまよひ「オヽ我物わがもの、遂に我物」と云ひながら彼の首に手を纒ふに彼れが身は余が雙手もろての間に解けしか、力無き事生れたての小兒の如し。
 生す殺す、總て是れ余が自由、二度まで婚禮して妻とせし余が妻なり、二重に買入れし奴隷よりも猶ほ余が物、余は後宮に二千の美女を蓄ふる土耳古とるこ皇帝が其美女を弄び、其美女を革の袋に入れ、其美女をほりに投じて殺すさへ自由なりと云ふ如く彼れを如何樣に取扱ふとも總て自由ならざるなし、余は彼れの皇帝なり、彼れの持主、彼れの飼主、彼れの所天の又所天なればなり、彼れ假令たとひ余が手にて何の樣な目に逢ふとも彼れが爲に余を訴ふる人は無く、彼れを惜む人とて無けん、彼れ其家のとめるが爲めうやまはれ愛せらるゝに似たれど眞實に彼れを愛する者は魏堂の如く波漂の如く、總て彼れに欺かれ彼の敵と爲り、殘るは唯だ心に彼をうらみ上部うはべに彼れを敬愛する者のみなればなり。彼れほろぶれば彼れが友とする幾度いくたの貴婦人まで却て交際場裡かうさいぢやうりの兇敵を拂ひたるを喜ばんのみ、なんの所より考ふるも余は彼れに寸分の容赦あるべからず。


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