白髮鬼
黒岩涙香
九三
余が徐ろ/\と寄行くに、那稻も丁度話の切目なりしと見え、立て貴人等の傍を離れ余が方に寄來れり、他れ用事有りげなる余の顏色を見て取りしものなる可し。
余は夫となく彼れを人無き邊りに連れ行き聲を潜めて「和女は豫ての約束を覺えて居るか」と問掛るに那稻の顏色は忽ちに晴れ渡り「アレを忘れて何うしませう、私しは貴方が又若や忘れて居はせぬかと夫ゆゑ立て來ましたのです」占たりと余は心に喜び「では最う丁度好い時刻だ、誰も知らぬ間にソツと拔出て行うでは無いか。」
「ハイ行きませう、何うぞ連て行て下さいまし、サア早く」と猶豫も無しに却て余を迫立る程なるは、彼れ己が身の破滅とも知らず、眞實此約束の履行時を待居たりと見ゆ。
慾深き他の心に之を待つも無理ならず、約束とは讀者の知れる如く余の隱し有る寶物を見、其中より己が氣に入る品を撰取ると、余が露出の眼を見るとの二ヶ條なればなり。
余の眼を見る丈ならば左まで待焦れもすまじけれど寶物は是れ明日の旅に佛國巴里まで行持て、巴里の貴婦人達を驚かして呉れん者と豫てより彼が心に待設る所なり、余は猶更に勿體附け「寶物を隱して有るなどと毛程も他人に悟られては、後の用心が惡いから極々秘密に行かねば了ぬ、直と云ても爾も行くまい今から二十分の時刻を計り、裏口へ忍び出れば私が一切の用意を調へ其所に待て居るから。」
「ハイ二十分。」
「だけれど此儘の服では寒からう。」
「イヱ此上へ厚い上被を掛けて行きます、ですが、餘つぽど遠いのですか。」
「爾遠くも無いが。」
「十二時には晩餐の饗應が始まります故、夫までには歸て來られませうか。」
「無論の事」那稻は益々心浮き「婚禮の夜に大勢の客を待せて置き、夫婦忍んで寶物を見に行くなど何うしても昔々譚です、其上月も出て居ませう。」
「出て居る樣だ。」
「ではね、二十分には佶と行きます、今彼許に居る婦人達と混歌の躍を約束して有ますから成る可く早く夫を濟せまして」と云ふ、抑も混歌とは波蘭土の躍にして美人の美を示すこと此躍に如く者無ければ、那稻は斯る場合にも猶ほ己が美しさの益々衆に秀たるを示し置んと思へるなる可し。[#底本には「」」]
去れど余に取りては結句幸ひ、余には尚ほ多少の用意あれば其暇にと含きて那稻に分れ、※[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]々此所を拔出で二階なる我室に入行けり、嗚呼今まで姿を變へ、聲を變へ、樣子を變へ、贋の人と爲り居たる窮屈を漸く脱捨てる時來りしかと思へば、ホツと打寛ぐ息の先立つのみ。
是より纔か幾分時の間に余は姿鏡に向ひ、成る丈け我が贋姿を捨て本の波漂羅馬内に成返れり、固より白き髮、白き髭髯は本の波漂の通り黒くする由無けれど、手早く剃刀を取りて頬の髭、顋の髭を剃落し、昔しの通り鼻の下なる八字髭のみと爲し、長く掛けたる黒目鏡も脱して見るに、睫毛の長く生たる下に澄渡る目の光は確に余が本來の眼なり、殊には其の孰れの所にか凛として侵し難き決心見え、一念貫かざる事無き健兒の相貌自から備はれるにぞ、余の心勇み立ち、鏡の前に身を引延し、拳を握り腕を振り、頓て又四肢を踏鳴すに身體の具合少も損じたる所無く、是ならば赤手を以て大敵と戰ふとも左まで恐るゝ所なし、況してや彼れ那稻輩一捻りに捻り殺すも難からじと思へども、用心に如くは無ければ、更に手箱の中よりして取出す匕首は音に聞えしミラン市の本鍛にして、余が復讐の一念凝りし時より秘藏せる逸品なり、其の刃を本より劍突まで撫で試みるに、手障り霜よりも冷かにしてゾツと凄味の身に浸るを覺ゆ。
是等の用意調ひて次に取揃へしは證據品なり、是とても豫て纒めある者なれば別に手數は要せざれど念の爲め檢むるに、余が先に生ながら葬られし時、余と共に棺の中に納めありし彼の十字架を初め、其時余の身に着居たる余、妻、娘の冩眞入、及び之に繋る金鎖あり、猶ほ那稻より魏堂に送りし幾通の不義の手紙、其他一として欠たるは莫し、次には禮服を脱ぎ余が波漂たりし頃、平生着けし如き服に着替へ、又次には余が立去りし後にて此室を尋ぬるとも孰れに行き何を爲せしや更に手掛りの殘らぬ樣、一切の品を片附け、反古類は燒盡し、宿の主人に遺身として贈る可き品までを取揃へ、最早や此上盡す可き所無しと再び鏡に打向ふに、波漂波漂、余は眞に波漂なり、前生に親しく余を知りたる者、唯だ白髮を怪みはすれ、誰が又余が波漂たる事を見て取ざらんや、余は滿足して更に外套を被、其襟を捲り上げて剃り立の顋を隱し、眼は暫く又眼鏡に包み、帽子眉深に引卸して裏口に出行きたり、那稻既に此所に來れるや否。