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 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        八八

 頓て定めの寺に着けば、余が婚禮を見ん爲に群衆せる人のすう幾千人と云ふを知らず、おいも若きもいやが上に推重おしかさなり、互に何か余が噂を呟けり、寺の中なる會堂の入口より、婚禮する神卓しんたくの前へ至るまで豫て余が寄附にて一條の絹を敷詰め、猶高貴なる天葢てんがいをも吊して其下に樣々に冬の花をつらねたり。
 會堂のうちとても群衆は外とかはる事無く、唯だ一條の絹の道のみわづかばかり開けるにぞ、余はマリノ侯爵と共に茲をつたひ、神卓のもとに行くに此所には余が特に招きたる貴紳きしんの人、凡そ二十名ばかり、絹の繩を引きて群集の入込いりこむを防ぎたるまうけの席に居列ゐならべり、余は是等の人々に挨拶を濟せし上高き神卓のそばまで昇り行き茲に控へて待受くるに、最も余の眼にとまり又余の心に關するはかたはらの壁にえがきしいにしへの聖人尊者などの像なり、勿論余が神經のまよひなれど、總ての畫像ゑすがたいきたる人の如く余をめぐりて余が邪慳じやけんなる復讐を叱るかと疑はる「アヽ波漂、汝は此復讐を思ひとゞまる事は出來ぬや、汝は一點の慈悲心無きや」何うやら斯の如き聲の余が耳にる如き心地すれど、余は斷乎だんことして又心に答へぬ「否、否、この邪慳なる復讐の爲め未來永々地獄の底に投入なげいれられ、たゆる時なき火の中にやかるゝとも今は、然り今は、猶此世の人なり、此世の復讐を仕遂しとげずしてむ可けんや」と。
 實に余は此復讐の邪慳なるを知る、又余が行ひの罪深きを知る、去ればとて是れ余が初て決心せし時より分りし事、今更なほ何ぞ思ひとまるを得ん、女の不實は世とし時として無きはけれど、此世に於て充分に之をばつせし者ある事なし、余が前にも既に無ければ余が後にも亦無き事ならん、余をして唯だ一度女の不實を罸せしめよ、余にして之を罸せずんば女の不實は天地開闢の初より、世界終滅の末日までつひに此世に充分なる罰を得ずして濟む事を得ん、惠み深き基督きりすとの肖像も兩手を開きて余が目の前に在り「來れ、きたる者は救はれん」と余は呼給よびたまふ如くなれど、余は復讐を捨て行く能はず、此復讐を終らずば基督にも惡魔にも天堂にも地獄にも行く能はず、アヽ余はきやうせり、實に復讐の爲めに狂せり。
 此時若し喨々りやう/\たる音樂の余が四邊より起ること無かりせば余は我が心に積む恨みに堪へず、實に發狂して、手を握り齒を噛締め、神卓の前に立上りしも知る可からず、唯幸ひに豫て備へ置きし音樂手おんがくしゆおもむろに微妙のおんを送り來り、宛も慰むる如く余が耳にいりしより、余は漸くに此席是れ婚禮の席なるを思ひ起し、我がいかり推鎭おししづめ我が胸を落着けたり。
 是れ婚禮の席なる、思へば實に二度目の婚禮なり、所天は余、妻は那稻、同じ場所にて同じ人、同じ二度目の婚禮をあぐるとは眞に不思議な縁なる哉、否々是れ婚禮に非ず、余と那稻は既に最初の婚禮にて夫婦なり、夫婦にて又婚禮すると云ふ事あらんや、此度は復讐なり離縁なり、余と那稻の間に殘る汚はしき夫婦の縁を此儀式にて切破るなり、先の婚禮は寧ろ余と那稻を繋ぎしよりも、余と親友魏堂とを切離す元と爲り、今は余と那稻を切離す元と爲る、不思議と云はずして何とか云はん。
 余は斯く思案しつゝひそかに衣嚢かくしを探りて那稻に與ふる婚禮の指環を取出とりいだし、獨り其光の一かたならぬを見又滿足して元に納めぬ、此指環是れ余が魏堂の死骸より拔取りたる者なり、先に余波漂が那稻と縁を固めし時夫婦の記章しるしとしてめたる者にて、唯だ那稻に夫と悟られぬ爲め、金銀細工師の手に掛けて少し其形を替させ、更に新しく磨せたる者なり、此指環を那稻に歸さばれ那稻と余笹田折葉との縁を繋ぐにあらで、那稻と余波漂との縁を切るなり、那稻のまなこあきらかなりとも此指環を先の波漂の品なりとは氣附得きづきえじ、暫くにして十一時の鐘の鳴るとひとしく横手なる入口の戸を開く者あり、余は其所より入來いりくる人の姿を見ぬうちに先づ口々に呟き逢ふ諸人もろびとの聲を聞けり、諸人は何を呟けるにや、余は少し首をなゝめにし入口のかたを打眺めてはじめて知れり、入來いりくるは余が妻那稻にして諸人の呟くは其美しさに驚きたるなり、那稻の美しさ今に初めぬ事なれど、見慣れ且つ憎慣にくみなれたる余さへ是はと思ふばかり日頃より又立優たちまさる姿なり、アヽ讀者、愈々余が待ちに待つたる復讐の時定まれり、愈々今夜と云ふ今夜なり。


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