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 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        八四

 流石那稻は幾分か余の機嫌を損ぜしと見て取しか、是よりはた芝居にのみ夢中とはならずして痛く余につとめたれば、余も寧ろ我言わがいすぎを悔い、復讐の既に眼前まで推寄せたる今と爲り斯る事云ふ可きに非ずと思ひ、是より芝居の終るまで、共々に打興じ何事も無く濟みたり。
 此翌日は即ち婚禮の前日なれば余は早く起出おきいだしが、泣くも笑ふも今日限りなりと思へば昨夜の見舞を兼て、先づ同行せし夫人達の家をひ、最後に那稻が許に到るに彼れ萬端の用意整ひたるを説き、婚禮の時に着る衣服など示し終り、此上は唯だ明日あすより後の樂みをかたらふのみなりと云ひ、余を日當り好き縁側に連れ行きつ二個ふたつの椅子を相對さしむかへて膝を交へぬ、世の常の婚禮なれば是こそ二人が爲め最も樂しき時なる可し。
 縁先に咲亂さきみだれたる椿の花、美しけれど那稻の姿に及ばず、軒端のきばさへづる小鳥の聲、爽かなれど那稻のことばに如かず、れ殊に顏の半面を日方ひなたに向け其美しさを惜げ無く映出うつしいだして余がほしいまゝ打眺うちながむるに任せるにぞ、余は倩々つく/″\と見て今更の如く打感じぬ、彼れが心若し彼れが顏の如くなりせば、余は彼れが奴隷と爲り、彼れが爲めに喜びて一命をもなげうつ可きに、彼れが紅の唇は何人たりとも唯だ彼れが意の向ふ人のぬすみ吸ふに任せ、其雪よりもきよげに見ゆるはだ豚屋ぶたやの看板にも均しく金持かねもてる人の目をひかんとするに過ず、彼れ實に造化が奇を好むあまりいでし作り物にて其顏に世界中の美を集め、其心に世界中のしうを集めし者なり、徳も無く操も無く、悉く己を愛する人に毒す、波漂と云ひ魏堂と云ひ波漂再生の余と云ひ、彼れが爲めに世に類の無きまでに恐ろしきうらみを呑みて憤死する惡運に陷れり、今余が復讐の大決心を以て一刀兩斷に彼れを仕留めずば、彼れ此上に何人の人を欺き幾度いくたび此世を毒せんも知る可からずと、余は黒き目鏡の底に於て怒る眼を光せども余が顏は彼れに向ひて日影に在れば彼夫れと知るや知ずや、唯だ其美しき顏に一段/\の嬉しさを加へきたるのみ。
 果は嬉しさを包み兼ぬる如く、笑頽ゑみくづれて口を開き「貴方は本統に昔々譚むかしばなしに在る天子樣の樣です成さる事は他人に眞似の出來ぬほど十分ゆたかに成されるし貴方の樣に物事が豐なれば何れほどか幸福でせう」余は猶ほ例の冷淡なる口調にて「イヤ夫人、豐でも貧しくても愛ほどの愉快は有ません。[#「」」欠字か]
「イヱサ貴方は豐な上に愛を得て居るでは有りませんか、世間に誰が貴方を愛さぬと申します」「イヤ其愛は皆金錢から來るのです、私しが金錢に豐かで、私しを愛すれば直に夫だけの得が有るから愛するのです、若し私しが貧乏ならば構ひ附けぬ人ばかりでせう。」
「イヤ私しまでも其仲間にお數へなさるのですか」と問ひ、目をらきて余の顏を見詰むれども余がとみに返事せぬを見「世間の人は其の樣な事の爲に貴方を愛するかも知れませんが、夫婦約束までする者が何で金錢などを思ひませう、夫では金錢の爲め愛を賣ると云ふ者です、貴方のお身に愛す可き所が有り此人ならばと思ひ込めばこそ、獨身の喜樂きらくな生涯をて貴方と一つに成るのでは有ませんか、金錢は豐でも何時いつつくるか分らぬ者、夫を目的めあてに生涯の約束が出來ませうか」と云ふ言葉何ぞ夫れ尤もらしきや、今に初めぬ事ながら余は那稻の口先は巧妙なる笛のべんと同じ樣に作られて、人の心を聞醉きゝよはしむる爲に仕組しくまれし者にやと怪みつゝも其色は更に見せず「イヤ爾云ふて下されば安心です、年老としよりは兎角疑ひ深く、實の所ろ私しは何故なにゆゑ自分が貴女の愛を得たであらう、若しや唯だ萬事に豐なと云ふ爲では有るまいかと折折をりをり氣遣つた事も有ます」「ソレは又餘り私しを見くびると云ふ者では有ませんか。」
「イヤ最う全く疑ひが晴れました、爾云て下されば眞實私しが氣を許す證據として、貴女に知せる事が有ます。」
 言掛けて余は勿體らしく聲を低くし、那稻が何事にやと氣遣ふ樣をあぢはひつゝ「いまがた貴女は私しの事を昔々譚の天子の樣だと云ましたが、或は爾かも知ません、昔々譚の天子の外は持て居無い程の寶を私しは持て居ます」寶と聞きて、早や眼の光初ひかりはじむるは隱すにも隱されぬ彼れが貪慾の天眞てんしんなる可し「ヱ、何と仰有います。」
「イエ此世に又と無い寶物です、先日ソレ貴女へ珠玉を贈りましたでせう、お目に掛る前に引出物として、ヱ、貴女はお忘れに成ましたか」那稻は腹の底より身體中をかぶりに振り「何うしてアレを忘れませう、勿體ない、那れは私しの命と思ふ程大事に仕て居ます、婚禮の時に飾るのもアノ珠玉です、那れは貴方、天女でも持て居ぬ程の品ですが。」
「ハイ、天女にも持たぬ程の品を、天女にも無い程の美人に贈るから少しも惜いと思ひません、併し私しの蓄へて居る寶物に比べてはアレハ何でも有ません。」
「ヱ、那の上の珠玉が。」
「ハイだ有ます、私しの手に有ります。」
「爾して夫れは。」
「ハイ婚禮すれば皆貴女の物に仕て頂き度いと思ふのです。」
 那稻が顏は餘りの嬉しさに赤くなり又青くなれり。


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