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 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        八一

 余が復讐、否、余が婚禮の益々近づきたる時も、猶ほカアニバルの大祭は終らずして、寧府の市民引續きて戸外に躍り興じ、日々の町も、極樂園ごくらくゑんになりしかと疑はるゝばかりなるも、唯だ余波漂のみはしうと共に躍り興ずる心勿論無く、以前の如く交際場裡に出でくも亦ものうし、さればとて婚禮の仕度はいやが上にも整ひ盡して一身何の用事も無く、唯だ婚禮の日、復讐の時、早くきたれかしと祈るのみにて、待遠まちどほきことと云ふ許り無く、殆ど我身の置所おきどころにも困る程と爲りたれば、一日二日は書見しよけんなどして暮せしも、二度と此世に用の無き身が書を讀みたりとて何の益か有らん、寢つおきつも今はあきはて、はては全く爲す事無く一じつの消し樣にかんがへあぐむ迄に至りしかば、最早や百計茲に盡きて、詮方なくも宿を踏出し告lの面白氣なる樣を見向もせず、唯一人足の向ふが儘、目當も無く歩み去りたり、き着く先は知らず是れ孰れの地ぞ。
 人は何事も氣に連れる者、心の陽氣なる時は知らず/\陽氣なる地に向ひ、又陰氣なる時は求めずして陰氣の所に到る、余が到りしは陰氣も陰氣、余がかつて死し曾て葬られし墓窖のほとりなり、先に余と決鬪して死したる僞り者魏堂めの墓も此邊このへんに在り、余が身に取りては此邊このあたり唯だ何と無く我が故郷なるやに思はる。世間の人皆余を捨盡すてつくしたる今と爲りても地獄ばかりは猶ほ余を捨てぬと見ゆ。
 余は墓のへんを徘徊して、樣々の事を思ひ出し、唯だ暫しが間、日の永きを忘れ得たれば翌日も行き翌翌日も亦行けり。余が身の置所は地獄の隣より無き事にや、兔に角余の外に人無き場所とて泣くも笑ふもさまたげらるゝ恐れ無く、笹田折葉の皮被る窮窟きうくつなければ、猶ほ此上に墓窖の中までも入込いりこみ度しと思ふ如き氣のするは、實に何所どこまで、心の陰氣になる者か、我身ながら怪しく思へり。
 去れば最後に此處こゝに到りし日の余は此墓窖の戸を開く可き鍵を探して持行きたり、此鍵は豫て羅馬内家に備へある者にして余の書齋に在りたるを余ひそかに探しいだしたるなり、余は羅馬内家の主人として其家の鍵を持去るに何の不思議やある、は云へ余は此鍵を以て、あへて墓窖の戸を開き、敢て其中にいらんとせず、唯だ遠からず我手にて其戸を開かねばならぬ時のきたる可きを思へば、鍵穴に其鍵を差込み、自由に其戸の開く事を試し見て胸の中に安心するのみ、幾度いくたびか差込み幾度か捻廻ねぢまはし、鍵穴の錆も取れ、きしらずに最となめらかに廻る樣を見、是ならば何時なんどきにても入行いりゆかるゝと滿足すること限り無し、是れ勿論余の痴情ちじやうに非ず深き仔細の有る事と後に到りて思ひ知る可し。尤も此鍵あらずとも余一人は彼の海賊の拔け穴より出入でいりする事かたからず、今は余が拔出ぬけいでし頃より草木尚茂りて其穴全く見えざれど、余の心には能く分れり、塞ぐも開くも隨意なれど個は余が祕密の穴、他人を出入させ又は他人と共に出入するには此鍵にて表口よりせざる可からず。
 余は鍵穴の錆全く去りしに安心し此所このところを立去りつ、歩み/\て波止場に至れり、個は少し目的の有る事にて、實は余が復讐の後の處分に付き自らけつかねる所の有ればなり、せんかかくせんか、先づ波止場へゆきての上に思案にせんと、既にして到り見れば、茲もカアニバルの祭に浮され、餘多あまたの船頭水夫など、茲に一群ひとむれ彼所かしこ二群ふたむれ、或はうたひ或は躍り、いと樂しげに興じ居るにぞ、暫く彼方此方かなたこなたを見廻すのみなるに、漸く目にとまる一にんは躍りも餘り面白からずと思ふ如く群の外にいでて、卷煙草吸ひながら海のかたながめ居る船長あり。
 かゝる眞面目の人こそ余が相談の相手なれト余は寄行きて其顏を見るに、天の助けとも云ふ可きか此人滿更の他人に非ず、余が曾て波漂の姿を變へ笹田折葉になるが爲めパレルモに航海せし其時の船長なり、海賊輕目郎練を逃したるはなしせしも此人とし、余を珊瑚漁の漁夫ぎよふに非ず必ず由qゆかりある紳士ならんと見破りしも此人とす、船長羅浦らうら名乘なのりたる其名前さへ猶余が耳に在れば余はちかづきて呼掛よびかくるに、彼れ驚きて暫し余の顏を怪み見るのみなりしも、頓て心附こゝろづきし者の如く「オヽ笹田伯爵ですか」とて余を呼返し、其後余が當地にて極めて贅澤に暮せる事より、近々きん/\婚禮する事までも噂に聞き一たび尋ねんと思ひ居しなど語るにり、余は此上無き幸ひと思ひ四方八方よもやまの話せし末、少し相談したき事も有ればと云ひ、其手を引きて更に人無き靜なる場所へと連行つれゆきたり、余が相談とは如何いかゞの事ぞ?


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