白髮鬼
黒岩涙香
七八
斯くて凡そ廿日程を經、余は李羅の心の益々瓶藏に[#「瓶藏に」は底本では「瓶造に」]傾くを見たれば、最早や好き時分と思ひ李羅の母を呼寄するに、母は客待遇の事に就き何か小言でも言はるゝかと氣遣ふ如く余が室に入來りしかば、余は先づ爾る小言に非ずとて充分安心させし上「阿母さん、呼寄せたは外でも無い、お前の娘李羅の事だ」母は猶ほ氣遣しげに「ヱ、李羅が何か疎※[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]でも」余は成る丈聲を和げて「イヤ其樣な事では無い、李羅も最う追々年頃に近く故、母となれば婚禮の事も心配して遣ねば成るまいが、お前は何か考へでも有るのかネ。」
娘に婚禮させる事、母に取りては喜しき問題なれど、母一人子一人にて育てし者を手放して他に縁附るかと思へば俄に心細き思ひするも當然にや、母は憂ひの色を現し「ハイ私しとても時々爾う思はぬでも有りませんが、今まで育て上た者が此家に居無くなるかと思へば。」
「オヽ心細いは尤もだが。」
「イヱ、私しには李羅の外に老先の樂みも有ませず、今でも宛で産立の赤兒の樣な氣が致します、追々年頃には成ましても私しの目から見れば本統の世間知らずで、之を家より外へ出すは痛々しい樣に思ひまして。」
「夫は尤も、孰の母も其樣に思ふけれど、當人の身に成れば爾でも無いのサ、併し婚禮すると云ても強ち母親の手許から離れると云ふ譯では無い、何うだお前の爲には我産だ息子も同樣、少しも氣の置けぬ者を婿夫として此家へ迎へては。」
「ハイ氣に叶ツても。」
「娘の氣に叶はねば、爾とも/\娘の氣にも叶ひ爾して當人が喜で此家の婿に成るならば。」
「ハイ其樣な者が有れば結構ですけれど、此方が好ければ先が惡く。」
「イヤ爾も限らぬよ、阿母さへ承知なら是非私が世話を仕度が。」
「ヱ、貴方樣が。」
「爾とも私が自分で仲人に成り世話して見たい婿が有る、と云ふは外でも無い、從者瓶藏の樣な者を」母の涙は中より笑を浮め「アノ瓶藏殿、ハイ那の人ならば氣立も好し、若いに似合はず私しにも親切ですが、イヱ彼の方は李羅を何とも思ひません、唯だ一心に貴方樣に仕へて居ますもの」と云ふ心は、先づ七分承知の意なれば余は早や、ホツと安心して「成る程、私に一心で仕へて居るが、決して李羅を何とも思はぬ譯では無い、唯だ其樣な素振を見せては阿母も立腹するだらうし李羅も驚くだらうと思ひ自分で謹んで居る丈の事、先づ阿母の目で夫と無く氣を附て見成さい、兩人とも心の中では充分思ひ思はれて居る事が分るから」と云ひ余は豫て李羅の婚資として與る積にて五千法の金を包み置しが其一封を取出して「コレ、阿母さんや、此中には五千法の切手が有るが、豫て私が親孝行な娘に遣度いと思ひ別にして溜て置た、之を李羅の婚資として李羅に遣るから」と云ひ來れば母は聞き終らずして打驚き打叫ぶも無理ならず、余は語を繼ぎ「イヤサ之を受取れば是非とも李羅を瓶藏の妻とせねば成らぬ樣に思ふだらうが爾では無い、是は李羅が誰の妻に成るにしても其婚資にするが好い、ナニ其樣に禮を云ふ事は無いよ、是位の金は私の身には何でも無い、是で他人を喜せる事が出來れば私は何よりも歡しい、尤も婚資の有る娘には、唯だ其婚資だけ附狙ふ痴漢等が彼是れ云寄る事も有る者ゆゑ、是は婚禮の當日まで誰にも知さずお前の腹の中へ仕舞て置くが好い、夫だけで私は滿足するから」と云ふに、母の歡び譬ふるに物も無く、余が自ら我が手を引き去る暇も無き間に早くも余の手を把りて接吻し、殆ど涙ながらの聲にて「戴いては濟ませんが、李羅の生涯の幸福ゆゑ、母の身として娘の幸福を妨げる樣な事は出來ません、娘に代て戴きます、貴方樣は神のお使です、本統に神樣です、李羅も私しも、死まで朝夕の祈りに必ず貴方の幸福を神へお願ひ申ますから」余は徐ろに手を引きつ「イヤ、私の樣な者は仲々祈て貰ふ程の値打は無い、唯だ死だ人々の爲に其罪の滅る樣に祈るが好い」と云ふ、余は實に復讐を果して何時死ぬも分らぬ身なり、死したる後にて死人の爲め一片の謝罪を神に捧げて呉るゝ人も有らば、余が後生も安らかなるを得んか、思へば余も自から涙の浮ぶを覺えたり。
是より數日を經、宛も余が此處へ來りて卅日目の事なりき、余は最早や李羅と瓶藏を暫し引分るが好き頃と思ひ、瓶藏を呼び「コレ瓶藏、分れは愛情の試驗者なりと云事が有る、其方も少しの間李羅と分れて居れば李羅の心にも、其方と分れて居れば何れほど逢度い想がするか自から分るだらう、明朝此地を立つ事とするから其積で用意しろ」と云ひ渡し、翌日愈々此地を立ちたり。
立つに臨みて瓶藏は日頃と變る色を見せねど、李羅は何やら悲げに其眼を垂れたり、母は目の邊、口の邊に意味有げなる笑を余に向ひて發するは李羅瓶藏兩人の樣子、追々余が云し方角に向ひ行くを認ての事なる可し、余は此靜なる山里も今此時が見收めかと思へば、心細く胸欝がり、口數もきく能はず、唯だ李羅を見て我が孫にでも分るゝ如く輕く其首を撫で「阿母さんに能く仕へるのだよ」と云ふ、此一語が分れの言葉、其儘船に乘込みたり。
頓て寧府に歸着けば暮より新年に跨りてのカアニバル大祭の最中にして、市中の人々は躍り興じ、職業を忘れしかと疑はるゝ程に騷ぎ居て、余が決鬪の噂などは曩にダベン侯爵の手紙に在りし通り全く消盡して口にする人も無し、余は幸ひと思ひ是よりして唯だ一意に余が大復讐否な那稻と婚禮の準備に取掛りぬ。