白髮鬼
黒岩涙香
七七
瓶藏と李羅の樣子、實に一對の好夫婦なり、今は戲事に均しけれど早晩かは戲事の眞事と爲る時節無からんや、アヽ瓶藏は[#「瓶藏は」は底本では「瓶造は」]主人の余よりも遙に仕合せ者なり、彼れが最と輕々と斧を上下する樣、何う見ても生れ附き斯る業に適する如くにして今まで流行社會に立交る紳士の從者とは思はれず、爲す事總て天然自然にして少しの無理も少しの苦痛も見えず、況して傍より李羅の之を勵すあり、彼れ心に如何ほどか樂しき事ぞや。
余は我を忘れし如く茫然として見遣ながらも心に樣々の思ひを描きぬ、アヽ余は既に情も無く欲も無き世捨人、否世に捨られし人、唯だ復讐の念の外は何事も知らずとは云へ、現在我が目の前の他人の斯も樂しげなる有樣を見て個を妨ぐるの無情を爲すに忍びんや、李羅は孝行者瓶藏の如き者を所天に持たば生涯の幸なる可く、瓶藏又此上無き正直者なり、李羅の所天となるに耻ぢず、余は恐しき復讐を企つる我身の罪を亡す爲め迫ては二人の縁を結び、二人の幸福を全うせん、然し余が逗留の一週間は早や大方經ち盡し明日か明後日は此土地を去る定めなるも、今去るは二人の幸福を破るなり、歸たりとて那稻に對する大復讐を行ふ迄には猶ほ幾許の月日あれば急ぐには及ばぬ事、寧ろ此の土地の逗留を引延ばし此の戲事の熟して眞事と爲る其端緒の出來るまで留まらん、然り男女二人を苦むる代りに又一方に男女二人の幸福を作る、是余が最後の仕事なり。斯く思ふうち李羅は樂げに打笑へり。何事を笑ふにやと見れば、瓶藏の手より斧を取り自ら瓶藏の割し通りに其薪を割んとするは瓶藏に汗を拭く暇を與へんとの心ならんか、瓶藏が額の邊を一拭する時しも家の内より「李羅よ、李羅よ」と呼立るは母の聲なり、李羅は應じて急しく瓶藏に斧を戻し、ニツと綻ぶ笑顏を殘して其儘に走り去れば、瓶藏の[#「瓶藏の」は底本では「瓶造の」]斧の調子何と無く狂ひて見ゆるは余の僻目か。
頓て余が徐々と瓶藏の邊まで歩み行くに瓶藏は斧を置き、何とやら極り惡げに立直りぬ。
「オヽ其方は從者の役より斯樣な仕事が好と見えるな」瓶藏少こし口籠りながら「イヱ、幼さい時から此樣な仕事を仕慣て居ますから――斧など持つと母の傍で戲事した子供の時など思ひ出します。」
「夫は尤もだ、人間の生涯に子供の時ほど樂しい時代は又と無いから、イヤ其方も早く斧を持つ樣な氣樂な生活に復り度いと思ふだらう。」
「でも貴方のお傍を立去らうとは思ひません。」
「ナニ己の傍に何時までも居ると云ふ事は出來ぬ。」
「ヱヱ。」
「イヤサ、己の傍を離れても好いじや無いか、李羅と婚禮さへすれば」と半ば戲談の如く半ば眞面目の如くに云へば瓶藏は顏を赤くし、殆ど眞劍の想ひを現し「婚禮、其樣な事が出來ますものか、李羅は未だ子供ですもの」と云ふ其裏は早く成長せよかしと祈るなるべし。
「イヤ今は子供でも、追ては立派な娘と爲り母ともなる、其方が一緒に薪を割て見せる中には」瓶藏は「イヤ何うも」と云ひ面目無げに頭を掻くにぞ、余は一入聲を和げ「イヤサ瓶藏、成る程李羅は其方の云ふ通り美しい、夫に又極めて清淨な心を持て居る、兎角世間の美しい女には清淨な心が少いもので、之に出會す男は生涯の幸ひと云ふもの、其方は何處までも李羅の清淨な心を尊ばねばならぬ、他れならば誰の妻にも不足は無い、李羅を天よりの使と思ひ、其方の生涯を李羅の差圖に儘せて置けば其方も何不足なく世が送られると云ふ者だ」瓶藏は唯だ益々其顏を赤くするのみ。
「瓶藏、實は明日か明後日か此土地を立つ積りで有たが、今朝寧府から來た手紙の都合に由り逗留を延す事に成つたから其方も其積りで居ろ」瓶藏は余の心を覺りしや否。余も夫までは見拔き得ざれど永く此所に立ちては益々彼れに極りの惡きのみなりと思へば「ソレ天氣も曇て來た、折角割掛けた者なら、降て來ぬ中に割て仕舞て遣れ」と言捨て余は我が室へと立歸りぬ。
是より余は一月ほど此土地に留りしが其内に李羅は大に余に慣れて、宛も飼馴れし駒鳥が其主人に慣染む如き調子と爲りたれば、余は遠慮なく色々の事を聞もし言聞せもするに余が豫言は空からず、李羅が瓶藏に對する樣子、何時の間にか變り來り、復た今までの唯一通りの友達には非ず、何とやら恥しげなる素振も見え、眞實に瓶藏の事を我事の如く打氣遣ふ樣子も見え、瓶藏が近附き來る度に其頬に紅の潮するを見るまでに至れり、讀者よ東天の紅なるは日の出の近きを知る可し、少女の紅らむは愛の兆すの遠からぬを卜し得るに非ずや。