<<戻る  目次  次へ>>
 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        七五

 ダベン侯爵の手紙をひらき見るに、最初は決鬪の殘務を報じたる者にして、
「魏堂の死骸は羅馬内家の墓窖はかぐらの傍へ葬りさふらふ其仔細は同人どうにんことかねぜん羅馬内家の主人波漂殿の親友にて殆ど兄弟の如く仲好くせしとの事なれば、當人も地下の波漂殿も並葬ならびはうむらるゝ事滿足と存候ぞんじさふらふ」など記せり。
 次に此手紙と共にきたりし小包物の説明にして其文、
「此手紙と共に送れる小包は魏堂の死骸の衣嚢かくしよりいでたる書類に之れ有り、若しや其中に彼れの遺言書でも有はせぬかと、其中の一通を披き候所、はからざりき貴下の許婚の妻たる那稻夫人より魏堂に贈りたる艷書樣の者に有之候これありさふらふ。」
 扨は魏堂が羅馬に在る中、那稻より送りたる者と見ゆ、那稻何事を認めあるやと余はくだんの小包を披見度ひらきみたさにたへざれど、猶ほ侯爵の手紙を讀續くるに、
「勿論斯る親展書類を拙者等の隨意に處分する事出來難けれど兔に角貴下は那稻夫人の所天も同樣なれば、貴下に送屆くるこそ當然と存じ候、拙者等の偶然に披き見たる一通に依れば那稻夫人と魏堂の間には何か深き約束でも出來居できゐたる者かとも存せられ候、殘る手紙は一通も披き見ざれば何事をしたゝむるや知る由なけれど若しも彼の一通と同じ調子の筆法ならば、魏堂が貴下の婚禮披露を聞き怒り狂ひたるも滿更の無理とは思ひ申さず候、尤も個は拙者等の云事いふことに非ず、貴下に於てのこらず彼の手紙を御熟讀成され候はゞおのづから相當の御判斷有る事と信じ候、唯拙者は友人の情として一ごん申上度まをしあげたきは嶮しき坂の上を歩む者は、充分眼を開き萬事の案内を呑込まずば足踏外す事有之ことこれあり、老年に及び妻を迎ふ者は先づ妻なる女の心中より日頃の行ひを篤と呑込み置くを事に必要と存じ候、夫故差出さしでがましくも斯る事諄々くど/\申述候まをしのべさふらふ、猶ほ魏堂の介添人より聞く所によれば魏堂は羅馬へ出發する以前に既に遺言書を認め有りと申す事、而も其遺言書を那稻夫人へ預け有る由に候へば此邊も貴下の篤と考ふ可き所かと存候、一身に取り何よりも大切なる遺言状の如き物を愛も情も無き夫人に渡しおく如き事は餘り例の無き儀に御座候ござさふらふ、併し是等の判斷は如何いかんとも貴下に任せ候、次に決鬪の後事こうじは何も彼もなめらかに相運び、左まで世間の噂にも上り申さず、此向このむきならば貴下は何時なんどきたりとも御都合次第當地へ御歸り成され候て差支さしつかへなく、決してアレが決鬪の一にんかなどと世間の人より指さゝるゝ樣の事無之候ことこれなくさふらふ、貴下御立おたちの後は交際社會も何と無く物淋ものさびしく友人一同貴下の御歸おかへりの節を樂みて相待居候あひまちをりさふらふ頓首。[#「」」欠字か]
 とあり。
 余は先づ此手紙を卷きて納め次に小包の封を切るに、成程那稻の手紙なり、那稻が常に用ふる香氣入りの紙にして余が鼻には胸惡き感じあり、手紙の一端少しく血にみたる痕あるは是れ余の射貫いぬきし魏堂が胸の血にや有らん、平生へいぜいなら手を觸るゝも厭はしき所なれど、此手紙と同じく那稻が身體の血に染むも遠きにあらじと余は眼に復讐者の笑を光らせ、先づ其手紙の月日を揃へ見るに那稻よりは一日置じつおきに音づれし物にして中には丁度余と夫婦の約束せし其夜そのよに認めたる者も有り、余は順を追ひて讀行くに孰れも戀人と戀人の仲に取遣とりやりする文句にして他人には何の味だに無き程なれど、兔に角も愛情は充分籠り、男の心をとろかす如き文字もんじも多く、殊に余に約束せしに認たる一通の如きは、魏堂を天にも地にも代難かへがたき男の樣に記し、魏堂の爲には命もらずと決心せし女かと疑はる、魏堂が是等の手紙を見て、己の留守に伯爵笹田が孜々しゝとして復讐の網を張居はりゐたりと心附かぬは尤もと云ふ可し、之にて思ふも余がかつて那稻に欺かれたること全く此通りにして、那稻は確に一に幾人の所天を隱し、互ひに疑はざらしめじと云ふ往古の惡婦にも猶優なほまさたくみを備へて生れし者なり、察するに彼れ萬一魏堂が疑ひの心を起し、我身に何も彼も與ふると云ふ遺言の文句を書替る樣な事ありては一大事と見、殊に勉めて彼れの心をよはせたる者なるべし、那稻が愛と云ふも僞り、僞りと云ふも亦た僞り、彼れは唯だ貪慾と云ふ恐しき慾心の外に愛もなさけも無き女なり、愛と云ひじやうと云ひ其他一切の振舞は總て慾よりいづる僞りにして、彼れの全身に誠の部分は唯だ貪慾の部分のみなり、余は斯く思ひつ、猶ほ讀みて末に至るに又一入ひとしほ余を驚かしむる一通あり、左の如し、讀者讀め!


<<戻る  目次  次へ>>


目次へ戻る