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 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        七二

 余は實に斯る惡婦のそばに一刻だも長居すること汚らはしと思ふ程なれば、好い加減に切上げん物と思ひ「イヤ夫人、貴方の傍に居れば知らず知らず時間がちます、猶ほ私しはアベリノきの仕度萬端色色の用事が有ますゆゑ、今日けふは是だけでおいとまに致しませう」と云ひ、將に椅子より離れんとするに、那稻は「少しおまちなさい」とこたへて余が手を取り、先に余が渡せし魏堂の指環(實は余波漂の指環)を余が小指にめ「是はネ波漂が家に代々つたはツた夜光珠だいやもんどです。貴方が持つ程の品では有りますまいが、夫でも私しの愛の印しです」余は胸のあしきを覺ゆれど元是もとこれ余が爲の大事の品なり「ハイ此儘で肌身を離しません」と云ひ更に「アベリノから歸ツて來れば直にお目に掛れませうネ」と問ふに「其樣な事はお問成さるに及びません、多分は其時までに私しは寧府の屋敷に歸て居るだらうと思ひますが、若し歸て居無ければ直に茲まで迎へに來て頂きませう」と應ふ、余は此儘立去る可き所なれど彼れが心の虚々うそ/\しさ餘りのにくらしさにへざれば夫と無く責め置かん者と思ひ「夫まで貴女は毎日神に祈りを捧げて居るのでせうネ」「ハイ神を祈るより外に用事は有ませんから。」
「では魏堂の爲にも冥福を祈てお遣り成さい、貴女は彼を愛せぬと仰有るけれど彼れは眞實に貴女を愛し、貴女の爲に私しと喧嘩して貴女の爲に命まで失ひました、貴女に祈て貰へば彼れの魂魄れほどよろこぶか知れません、死人の魂は生前に自分を欺いた者や愛した者の傍へ來て、當分の中は附纒つきまとつて居ると云ひますから、本統に功徳です」此言葉には惡婦もゾツと身をふるはしたれば余は猶も附入つけいりて「夫にせんの所天波漂とても、貴女の貞節を思ひ、常に貴女の傍に徘徊さまよふて居るかも知れません、彼れの爲にもお祈り成さい、ネ、爾すれば貴女も心に滿足でせう」と疉み掛るに、那稻は益々やすからぬ樣子に見え、唇まで色を退きしも、彼れは止むを得ず「ハイ充分に祈りませう」と云ふ音調おんてうも穩かならず。
 愈々わかれとなりたれば余は「夫では」と云ながら其手を取りて握りしむるに、余が先に那稻にあたへし夜光珠の指環と、今しも那稻が余の手に嵌めたる指環とは、宛も切結ぶ太刀と太刀との如き光を發しなんとやら物凄し、是が愈々復讐に取掛る前表ぜんぺうかと、余は異樣の思ひを爲し、俯向うつむくとも無く俯向きて眺むるに、那稻も同じく俯向きて之を見しが、如何にせしかれの顏、痛く恐れにおそはれしと云ふ如く忽ちに青くなれり。
 余は何の故なるを知らず「オヤ何うかしましたか」と問ふに彼れ「イエ、ナニ」と打消して余の手を放せしが、猶ほ何とやら落附おちつかぬ所あり、再び又余の手を取り「一寸ちよつと貴方の手をお見せ成さい」と云ひ高く上て不思議さう見初みはじめたり、是れ何の爲なるぞ、余が手には其の無名指むめいしもとほとりに幼き頃の惡戯いたづらにてきずつけたる事ありて其傷今も猶ほ痕を殘せり、那稻は之にまなことゞめたるに似たれば、余は笑ひながら「何が貴女の目にとまりました」那稻は更に返事せず、猶も熟々つく/″\と眺めし末、余の顏を見上しが神經に一種の強き感じを引起せしと見え眼にも異樣なる色を帶び、唇も歪む如くに引締め來れり、頓て彼れ、我を忘れて發する如き聲にて、
此手このては、此手は、此指環を嵌めた此手は、波漂の手です、波漂の手と同じ事です、アレ無名指くすりゆびの元に在る傷までも」と叫びしまゝ、悶絶して仆れ掛れり。


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