白髮鬼
黒岩涙香
六五
既に定めの場所に着き、一同と共に馬車を下るに羅馬内家の墓窖は彼方に見え、余に樣々の事を思ひ出さしむ種と爲り、一際余が復讐の思ひを強くすれども相手の魏堂は未だ來らず、唯だ双方の介添人が昨夜の中に雇ひ入れたる一人の外科醫人待ち顏に佇ずめるを見るのみ。
頓て朝の六時を報ずる鐘の聲、近邊の寺より聞え來るに其音の猶ほ終らぬうち介添人ダベン侯爵「ソレ來た」と呟きたれば余も一方を振向見るに成るほど介添と思はるゝ二人の紳士に伴はれて、彼れ魏堂のソロ/\と歩み來るを見る。
魏堂は帽子を目深く引下げて、毛皮附きたる外被の襟を捲り上げ、其顏を隱せるのみか猶ほ愈々決鬪と云ふ時まで余の顏を見るをだに厭ふ如く、此方へとては見向もせざれば、其顏色の如何ほど打欝げるやを知るに由なし。余も今又充分余の顏を見せ又彼の顏を見る折の來るを知れば進み行きて窺きもせず、冷然として控ゆるに彼れ宛も疲れ果たる人の如く但ある樹の幹に寄掛りて留りたり。
是より彼れの介添人はダベン侯爵の許に來り一通りの挨拶して「距離は昨夜の御相談通り、七間離れると云ふことに致しませう」と云ひ侯爵も「ハイ異存ありません」と答へ、是より余の立つ所を定め、次に足數にて共に其距離を計りたり。
此間に余は我が外被を脱ぎて瓶藏に渡しなどしつ少しばかりの用意を調ぶるに、余の身は宛も木石の如く、今に何の情慾も何の感覺も無し、武者振ひとて能く人の云ふ所なれど震ひもせねば動きもせず、唯だ魏堂を射殺す短銃の發射機械と爲りたるに似たり。暫くにして距離の測量を終り介添兩人は更に短銃の檢査を初め、彈丸をも夫々込め直して立來り「サア雙方を決鬪の場所へ立せませう」と云ひ余と魏堂とを定めの位置に引出せり。
魏堂は今まで疲れし人と見しに似ず、手早く其の外套と帽子を脱ぎ大足で歩來り、足踏定めて突立しが、余は此時初めて魏堂の樣子を見るに彼れ夜一夜を恨に明し、眠さへも得ざりしと見え顏の色青くして兩の眼の周りに紫色の血色を繞らせり。且は彼れ目遣ひさへ落附かず、唯だ余を射殺さん一心と見え、唇までも恨めしげに堅く閉ざしつゝ、殆ど引奪る程の勢ひにて介添人の手より彼の短銃を受取りて充分に檢め始めたり、アヽ彼れ斯くまでに心騷ぎて如何で機械の如く落着きたる余に勝つ事を得ん、余は寧ろ彼れが今一入魂を据ゑ如何にも是ならば狙ひ損ずる事あらじと余に思はるゝ如くならんを望む、尤も唯だ七間の距離にして彼れの手練を以てする事なれば余を射損ずること萬々無き筈なれど、余は何と無く敵として物足らぬ心地するなり、余も足を踏締て立たるが此時フト心に浮ぶは余が黒き目鏡なり、第一余とても充分狙ひに念を入ずば成らぬ場合、眼を遮る者がありては夫が爲に不覺を取る事無しとも云はれず、且は又今にして波漂が露出の眼を彼れに見せずば、何の時にか復た彼れに余笹田折葉こそ彼れに窘められ辱しめられたる波漂羅馬内なる事を知しめ得んや、斯思ひて先づ四邊を見廻すに生前の余波漂を知れる者魏堂の外に一人も無し、ダベン侯爵は此頃佛國より來りし丈にて曾て波漂を知りし事なく、又魏堂の介添人も余の從者瓶藏も固より余を知る者に非ず、獨り大佐フレシヤ氏のみは數年前より交りたる人なれど彼れ幸ひに余が背後より斜の方向に幾間も離れて立てり。余の顏を見る氣遣ひなし、余は猶ほ魏堂の外に那稻と云ふ幾倍も憎む可き敵を控ゆる故那稻に仇を復するの時までは余が波漂なる事を何人にも知せ難けれど、茲にて目鏡を取外すは唯だ死際の魏堂一人に顏を示すに止る故、敢て憚る所なし、魏堂は冥途の土産までに余の顏を覺え行く者ならんト、余は少しの間に隈なく考へ終りたれば好しト心に含きつ手早く彼の目鏡を外し之を我が衣嚢に納めつ、最と晴やかなる羅馬内家代々の眼を露出にし、佶と見張て魏堂の顏を眺めたり。