白髮鬼
黒岩涙香
六三
瓶藏は余が言葉に應じ、夜の寒きも猶出る額の汗を拭ひながら、
「此家を出るや否花里氏は拳固を空中に振ながら海岸の方に奔りました、身體中の血が悉く頭に上た者か、走る足もフラ/\して地に着かぬかと疑はれます、偖は此人身投でもする積で海岸に行くのかと氣遣ひましたが、爾では無く全く腹立の爲め夢中になり方角を取違へたのです、頓て四五丁も走つた頃アヽ斯では無つたと叫び立止つて四方を見廻す樣子ゆゑ、私しは見認られては成らぬと思ひ軒下へ隱れました、彼れ花里氏は齒をボリ/\と噛鳴し、エヽ人非人めエヽ薄情女めなどと此樣な事を口走つて居ましたが其所へ丁度空の馬車が通り掛りました、彼れ此馬車を呼止めてサア大急で羅馬内家の門前まで遣れと命じ其儘飛乘ました故、扨は那稻夫人に逢に行くのかト私しも直に其馬車の背後にブラ下りました、三十分と經ぬうち馬車は羅馬内家の門に停まり、彼れ花里氏も降ましたから私くし直に馬車を離れ、一方の茂りへ隱れましたが彼れは急がしく拂ひを濟して馬車を追遣り、門の戸に近いて碎けるばかりに叩き初めました凡そ六七度も叩きましたが中より何の返事も有ません、彼れ益々狂ひ出し今は門を推破ると決心したか、コレ皺薦茲開ぬかと云ひ、那稻/\などと大聲上て蹴るやら突くやら散々に力を加へましたが十五分も經たかと思ふ頃漸く内より皺薦の返事が聞え、頓て提灯を提げて出る其火影が見えました、最も皺薦も餘ほど驚いた者と見えブル/\と手が震へ、提灯の火影が搖ぶるかと思ふ樣に動きました、彼れ花里は皺薦が門の戸を開るを待兼て己は那稻に逢ひに來たのだ、那稻を起せと叫びました、皺薦は咽でも締られたかと思ふ樣に涸た聲で咳をせき、イヤ夫人はお留守です此家には居ませんと答へました、彼れ花里火と怒り、直に皺薦の胸倉を取り、己れまで笹田折葉に荷擔して己を欺くのかと云ひ容赦も無く振廻します故、私しは餘ぽど隱れ場から飛出して彼れを救て遣うかと思ひましたが、貴方樣の言附も有ますゆゑヤツとの事で思ひ直し、イヤ/\今出ては成らぬと元の所に控へて居ました。」
「オヽ夫は能く控へて居た。」
「皺薦は振られながら、イエ嘘では有ません本統ですと叫びましたが、其聲花里氏の耳へ入ると彼れ初めて手を弛め、何だ本統だと、夫なら行た先は何所だ、有體に白状せよ、ハイハイ何でも茲から十哩ほどあるアナンジユタの尼院だと申ます、何だ尼院己を避る爲めアノ笹田めが、尼院に推込だのかと云ひつゝ、可哀相に皺薦を突飛しました、皺薦は彼方へ仆れ提灯までも滅茶々々に毀れましたが、花里は猶ほ暗の中で散々に皺薦を罵り、老耄め死るまで仆れて居ろと云ひ其の所を驅出しました、後に皺薦は漸う起き門を締めて退いた樣ですが、花里は一散に林の中を通り拔け横手の大道に走り出ました、私しも殆ど從ひ兼る程でしたが大道を四五間も歩むかと思ふ内、彼れ花里は餘り逆上て目が眩だか、堂と其所へ仆れたまゝ氣絶して仕舞ひました。」
「エヽ、魏堂が氣絶した。」
「ハイ氣絶しました。」
「夫から何した。」
「私しも此儘には捨置れぬと思ひ帽子を目深に引下て、外被の襟を捲上げ充分に顏を隱し、靜かに彼れを抱起して、傍らに在る噴水の水を掬ひ、彼の顏へ打掛ました、彼漸く氣が附ましたが私しを眞の他人と思ひ、言葉短に禮を述べ、ツイ目が眩んで倒れたのだと言譯し、夫から噴水の水を一升ほども呑み、アヽ是で心地が直たと云ひながら町の方へ下りました、私しは猶ほ其の後を尾けましたが彼れ裏町の或る居酒屋へ這入り、中から放蕩に身を持頽したかと思はれる二人の紳士を連て來ました。」
「ハヽア夫は介添人に頼んだな。」
「ハイ爾と見えます、言葉は聢と聞えませんが爾も悔し相に二人へ何か頼みますと、二人とも直に承知した樣でした、既に唯今私しの歸たとき其二人が此家へ來て貴方樣の介添人と何か相談して居ました。」
「爾か、最う相談して歸たのか。」
「イエ、猶だ多分相談して居るのでせう。」
「夫から何うした。」
「夫から彼れ花里は其二人に分れ、自分の住居へと歸ました、彼れ衣嚢から鍵を出し住居の戸を開いて入ましたゆゑ、何か探して又出て來るのかと思ひ私しは廿分ほども外で樣子を見て居ましたが、再び出て來る樣子も無く、彼れ何でも椅子の上に沈み込だ儘と見え、窓から明も見えません、暫くすると暗の中から泣聲が聞えますゆゑ能く聞けば彼れですよ、ヱヽ殘念だ笹田奴に欺されたと叫び、彼れ燈も點ずに泣て居ます、多分夜の明るまで泣明かす事でせうよ。」
「夫から何うした。」
「是丈見屆ければ最外に見る事も有りませぬ故、早く貴方に是だけの事を申上げ度いと思ひ歸つて來ました。」
余は是だけの事を聞き、益々心地よき想したれば更に言葉を改めて、
「是れ瓶藏、其方も見た通り今夜花里氏が滿座の中で己に加へた辱しめは血を以て洗ひ清むる外は無い、己が死れば其方は他に口を求めて奉公しろ、眞逆に殺されるとは思はぬが勝負は運次第ゆゑ仕方が無い、夫に就ては先日掃除した短銃を直に用ゐられる樣猶ほ能く檢めて組直して置け」と云ひ瓶藏が垂れし首を上げる間に余は寢室へと退きたり。