白髮鬼
黒岩涙香
五九
アヽ讀者、余が僞奴の僞りを知りてより今に至るまで既に三千五百時間、其間余が心は一寸の絶間も無く人たる者の堪へ得ざる汚辱を堪へ、譬ふるに物無き苦惱を受け、唯だ復讐の時熟するを待居たり。時として刻として余が胸には深く劍を刺して剔らるゝ程の痛みを感ぜぬは無く、一時間に一度としても余が腹は千切に千切て三千五百切の寸斷/\と爲りし者なり、血にも餘り涙にも猶餘る余が想ひは、積に積て茲に張裂る間際とは成りしなり、卓子の一端に立ちて一同を眺め、返す眼に魏堂の顏を睨む、余が目の光は、若し黒目鏡を外せしならば滿堂の來客を燒殺す程なりしやも知る可からず、余は唯だ必死の想ひにて先づ聲を和げ再び「諸君よ」と打叫ぶに興酣なる來客は余の聲容易に耳に入らず、余の左に坐すマリナ男爵は余を氣の毒に思ふ如く、食刀の柄を以て卓子の上を叩くに、此音に驚かされ一同漸く鎭りて余の言葉を謹聽するに至れり。
余は徐ろに説きて云ふ。
「折角諸君の打興じたる所をお妨げ申すは心無の業ですが、決してお妨げ申すので無く、實は諸君に最も歡しき一事を報じ一層其の興を深くせん爲で有ます(ヒヤ/\の聲起る)諸君今夕の宴會は既に招待状に記した通り是なる花里魏堂君を歡迎する爲で有ます、花里君は後進の交際家とは云へ此席に列する紳士は孰れも花里君を兄弟の如く思ひ、君の歡びは共に歡び君の悲みは共に悲む間柄で有ませう(然り、然り)此花里君が今夕羅馬より歸られたのは唯の歸郷では無く最も嬉ばしき歸郷です、花里君は非常なる財産を相續して其の身に相應する丈の身代を得て歸られました。是よりの花里君は今日までの君と違ひ最も裕福なる紳士ゆゑ、私しは諸君と共に花里君の爲めに祝盃を舉ん事を望みます」と述るに拍手喝采は卓子の周圍より隈なく起れり、喝采の終ると共に一同は盃を上げて「花里魏堂君の萬福を祈る」と云ひ一聲に呑乾すも、魏堂は殆ど人間滿足の絶頂に達したる如く其笑顏を隱し得ず、餘りに笑頽るを極り惡しと思ひしか、纔に小卷の煙草を燻らし、窓に振向きて漁火點々たる寧府灣を眺むるのみ。
余は實に魏堂が如何ほど嬉ばしきやを知れり、彼れは早や交際社會の大達者と爲濟せし氣にて是より後は榮耀も快樂も唯だ心の儘ならんと思へるなり、然れども今が彼れ魏堂の最後の樂なり、彼れが身には此後に樂なからん。上る事愈々高ければ落る痛みも益々強き譬へ、余は唯だ彼れを九地の底に落さんが爲め先づ九天の上に揚げたるなり。
余は一同が魏堂を祝す聲の稍や鎭るを待ち、再び聲を繼ぎ、
「併し乍ら諸君よ、此外に猶だ一つ、最も之は序ですが、諸君に披露して同じく歡んで頂かねば成らぬ事が有ます(謹聽、謹聽)と申すは外で無く近々私し伯爵笹田折葉の身に降掛る最大の幸福です」異樣なる言葉に來客益々耳を澄し、今は余が一呼一吸をも聞洩さじとするに似たり。
「諸君は定めて意外だと思ひませうが私しすらも意外です、御存の通り私しは禮儀に馴れず交際の作法にも嫻はず(ノー、ノー、の聲四方より起る)イヤ幾等否々と仰有つても兔に角私しは花里氏を始め滿堂の諸君の樣に決して貴婦人から大騷ぎをされる樣な男では有ません、私し自身も今の今まで婦人の事には斷念して居りました」是れまで云ひ來たるに來客は孰れも「成る程意外の事哉」と云はぬばかりに顏見合ひ、中にも魏堂は殆ど呆れ返りし如く其煙草を取落としたり。
「私しは年も年、健康も今は衰へ、半ば病人、半ば盲目と云ふ程ですが、是が本統に結ぶの神の悪戯とでも云ふ者か天女の樣な美しい婦人に逢ひ、其婦人が私しを惡からず思ひ初めると云ふ事に成ました故、私しは近々婚禮するのです」魏堂は何思ひけん顏の色を青くして立上り、余に問ふ事の有る如く其唇頭を動せしも、忽ち思ひ直してか尻餅搗きたり、他の一同は暫し言葉も無き程に驚きしが、頓て口々に祝辭を述べ「笹田伯爵萬歳」と云ふも有れば「新夫人萬歳」と呼ぶも有り、一ダースの口より出る歡びの聲は暫しが程鳴りも止まず、最後に一人、余と同じく獨身主義を取る鵞泥子爵聲高く余を呼掛け「伯爵よ、婚禮さへせねば寧府の美人は皆我物も同じ事です、其中の一人を撰び法律上の我物とせば他の美人は皆失望して我が物で無くなります、貴方は一人の美人の爲め百人の美人を失ひますよ」と笑ひながらに問掛る、余は眞目に之を受け、
「イヤお説は豫てより私しも同意です、同意なればこそ五十餘歳の今日が日まで獨身主義を貫きましたが、悲や眞の美人に逢ては如何ほどの獨身主義も粉々に頽れます、世界に又と有るまいと思はるゝ程の笑顏で私しの前に來り、私しの意を迎へ、私しの機嫌を取り、私しに婚禮の申込を促します。人木石にあらぬ限は之が無情に振捨られませうか(ヒヤヒヤ)兔に角も今は既に確定して婚禮をするばかりですから諸君何とぞ私しの未來の妻の爲に祝杯を擧ん事を希望します。」
鵞泥子爵第一に高く盃きを上げ、他の人々も勇て其例に從へども、獨り魏堂のみは何やら最と氣遣はしげにて容易には立んとせず、此時マリイ侯爵は余に向ひ「願はくは其新夫人のお名前まで御披露あらん事を」と云ふに魏堂も初めて力を得し如く立上り、乾きて聲の通ぜざる喉をば一盃の酒に濕し、猶も震へる不穩の調子にて「私しも其問を發しやうと思ツて居ました、名を聞たとて定めし我々の知らぬ美人で有ませうが、夫にしても名を聞かねば」と云ひ漸く外の人々と同じく盃を取上げたり、余は音聲を朗らかにし、
「夫では茲で披露しませう、私しの新夫人は諸君が皆御存じです、故伯爵波漂羅馬内の妻たりし那稻夫人で有ます。」
一同ワツと驚きて猶ほ其驚きの聲を發せず、髮をも容ざる際疾き間に、魏堂は早や烈火の如く、怒りに怒る叫び聲にて、
「己れ惡人奴、人非人奴。」
と鋭く余を罵るが否や手に持てる波々の祝盃を、碎けるばかりに余の顏に叩き附たり、狼藉、狼藉、滿堂は唯だ鼎の沸くに似たり。