白髮鬼
黒岩涙香
五六
愈々魏堂が歸り來る廿八日とはなりぬ、彼れを歡迎する宴席は余が畢生の氣力を注ぐ大復讐の序開きなれば余は朝の中よりして充分に心を盡し其用意に取掛りたり。會場は即ち余が宿の階下なる大廣間にして今までとても可なり立派なる會食の堂なりしを余は猶ほ一入の贅澤を加へん爲め、宿の主人に數多の金を取らせ、數日前より既に其飾附を取毀し、壁に掛たる鏡より床に敷く絨氈までも凡そ當國で手に入る丈の高價なるを取揃へ、椅子一脚にても大抵の家の爲には一身代とも云はる可き程の金目を掛けたれば、其他窓掛け卓子掛まで殆ど美盡くし善盡し、奢に耽る東洋の王宮にも斯まで奢侈を極めたる室は無らんと思はるゝ迄に出來上れり、之に準じて客に饗する酒肴は又驚く可き上等品にして、盃一杯に十圓金を盛る程の割合に當れど、余は敢て驚かず、宿屋の主人や給仕達などが、
「何の樣な宴會かは知りませんが是では餘り勿體な過ます」と評するを余は唯だ笑て聞流すのみ、飾附の爲め雇たる職人の一人は其仲間に向ひ「ヱ、帝王の婚禮でも是ほど立派な用意は出來まいぜ」と呟きたれど、余は心の中にて「浮世の樂一切を捨盡し、復讐の外に何の目的も無き余波漂が其復讐の用意なれば、世界に例の無き事もせざる可からず」と呟きしのみ。
此日余が招待を發したるは魏堂と余の知人の中にて撰びたる者にして其數十三人、余と魏堂を加へて十五人なり、孰れも招きに應ずるの返事を送り越したれば余は殊の外滿足して待居るうち、漸く午後の六時と爲れり。朝の中は天氣も曇り勝にて殊に風さへも加はり、一荒あるかと氣遣はれしも此時に至り最と穩かに晴鎭まりたれば、余は先づ魏堂への約束通り停車場へ馬車を遣り、自分は客を迎ふる用意の爲め、着服を改めんとて從者瓶藏を從へて室に入れり先づ箪笥より最も新しき一襲を取出し、次には光輝の非常なる夜光珠の鈕を取り之を瓶藏に渡して白衿の胸に附けよと命ずるに、瓶藏は受取りて其鈕を己が袖口に當て磨き、暫くにして附終りたり、余は徐ろに彼れに向ひ「コレ瓶藏。」
「ハイ旦那樣。」
「今夜の宴會に其方は余の椅子の後に立ち酒を注ぐ役を勤めるのだぞ。」
「ハイ心得ました。」
「其中にも花里魏堂氏の盃に注意せよ花里氏は余の右に据るから何時でも其盃に浪々酒の有る樣に氣を附けろ、少しの間でも盃が空に成らば其の方の手落にするから。」
「ハイ心得ました。」
「夫から何の樣な椿事が起らうとも、其方決して驚いては成らぬ、平氣で其處に立て居れ、何でも宴會の始めから終りまで、己の差圖が無い以上は決して其所より動いては成らぬ。」
「畏まりました」答へながらも何の爲め斯る嚴重の命令を受るにやと怪む體の現るゝも無理も無し。余は輕く笑みて一歩進み彼れの腕に余の手を當てつゝ「先日渡した短銃は何うした。」
「二挺とも充分に掃除して、何時でも使はれる樣にしお居間の卓子の上に載せて有ります」余は喜びて「では好し、是から其方は客の來るまで※[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]疎の無い樣、客室を見廻つてゐて居れ」と云ふに、瓶藏は充分呑込みし樣子にて立去りたり。
後に余は鏡を控へ、念の入る丈け念を入れて朝粧に取掛れり、余は波漂たりし頃より衣服には隨分注意する質にして折に應じての着し方は悉々く能く心得たり、殊に世の中には如何ほど立派なる衣類を着るも更に引立たずして給仕の燕尾服と間違へらるゝ如き人も有れど、余は幸ひにして格好好しと唱せらるゝ部類にて、衣服の立派になるに從ひ愈々品格も上る方なれば着替が終りて鏡面に[#「鏡面に」は底本では「帳面に」]寫る姿は我ながら見違へるばかりなり、斯て愈々服裝の終りし時しも戸外の方に輾り來る馬車の音、疑ひも無き停車場まで魏堂を迎へに出したる余が馬車なれば、余は既に我が敵の近く戰場に寄せ來りしを知り、熱血の顏に上り、動悸の早く打つを覺えたれど自ら心を推鎭め彼れを迎へんとて廊下に出たり。