白髮鬼
黒岩涙香
四九
「余が妻になりさへすれば」と初めて封切る大事の言葉、那稻の返事氣遣はしと思ふ間も無く那稻は其身が復讐の大仕掛に卷込るゝ緒口と知らぬ悲しさ、只嬉げに飛立て「オヽ伯爵」と云ひ猶何事をか續けんとするにぞ、余は先づ其言葉を推靜める如くに片手を差延べ、暫し那稻を默らせ置きて、
「イヤ夫人、御覽の通り私しは年も年、若い頃からの艱難辛苦に容貌も頽て居るし、健康とても人並より衰へた身體です、貴女の所天に釣合はぬと云ふ事は能く知て居ますが、唯幸ひには地位も有り信用も有り、貴女が他人から窘られるのを防ぐには適當の護衞兵かと思ひます、夫に又身代とても老い先短い私しが一人で何れほど使ても到底遣ひ盡されぬほど有ますから、何うか共々に樂く費す相手が欲いと豫て思て居たのです」と云ひ、更に夫人の顏を確と眺めて「殊に貴女の樣に一點の申分ない稀な美人を此儘置くも惜いもの、女皇に劣らぬ榮耀榮華を盡しても貴女の美しさには猶ほ不足だと思ひますから、何うか美しさ相應の御身分に仕て上度いのが豫て私しの願ひです、夫も貴女が私しをお嫌ひ成れば夫までゞすが、生涯共々に暮されるとお思ひ成らば何うか腹臟なき御返事を願ひます、私しは最う若い男の樣に熱心に掻口説く事も出來ず、血液も冷たく、脈も遲く打つ老人ですが、其代り血氣に早る人と違ひ篤と物事考へた上で云ふのですから、口に云ふ丈の事は必ず仕遂てお目に掛けます」と最不調法なる言廻し榮耀の外に高尚なる望み無き心賤き那稻に取りては、身代なき若紳士の最巧なる言廻しより猶ほ効目ある可しと思ふにぞ、余は落着きて結果如何にと見てあるに、余が言葉の初まりし時より其顏幾度か赤くなり、青くなり變る度毎に又一種の美しさを現し居たるが、聞き終りて暫しがほど無言に沈み、深く考へ込む樣なりしも、忽ち「大願成就」と云ふ如き喜びの笑の爲め、其唇動き初めぬ。
頓て那稻は靜に膝の上なる編物を取りて傍に置き來りてヒタと余に寄添ひたり、アヽ那稻が斯く余と密接して座せしは實に一昔の夢にぞある否一昔と云ふ程の月日は經たねど、余が爲には一生を隔てしとも云ふ可く、唯だ恍として夢の心地、頬に慣たる那稻の息は昔の温かさを想ひ出し、媚を含て見上る眼は今も猶ほ深く余が心に徹す、余とても是れ木石に非ず、實に多恨多涙の人豈に懷舊の情無からんや。
余は眞に腸の底よりして我が神經の紊來る心地したれど、猶ほ何氣なく控ふるに那稻は愛情の溢るるかと思はるゝ優しき聲にて、
「では私しと婚禮はすれど、眞實私しを愛するのでは無いと仰有るのですネ」と云ひ且恨み且訴ふる如くに余を見上げ、其白き手を力無く余が肩に掛け、聞ゆる如く又聞えぬ如くに、低き歎息を漏したり。余は坐ろに斷腸の想ひあり、オヽ那稻かと云ひて其身を抱き締め昔しの愛を温め度き程にまで我知らず推寄せたれども、余が心の何れかに忽ち余を嘲る聲あり、愚か/\汝波漂一度び復讐の念を起し名を捨て身を捨て其情其欲を捨ながら、未だ目的の半ばに達せず再び那稻の毒舌に罹らんとするか、ト殆ど叱る如くに聞えたり、是れ余が良心の聲なる可し、余は那稻が少し怪む程に身震ひしたるも、必死の想ひにて我が本心を呼返し、今までの決心に立廻りて、先づ柔かに那稻を抱き、少し余が身より取離すに、那稻は猶も細語き聲にて、
「イヽエ、分つて居ます、貴方は私しをお愛し成らぬのですよ、ハイ、佶と爾ですよ、ですがネ、私しは」と言掛けて口籠り又一際聲を低くし「あの私しは――眞に貴方を愛して居ます」と虫の音よりも細く云ひ、赤らむ顏を余の胸に推隱したり。