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 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        四五

 靜に病室のうちれば、窓の光線を遮らん爲め簾を半ば卸して、薄暗き室の内に白布の小さき寢臺があり、之に星子を寢かせて、傍らには老女のお朝心細げに念佛ローナレーを唱へながら腰を掛く、此樣を見る丈にて余は既に哀れを催し無言にて立留るにお朝は夫と知り「旦那と云ひ、孃樣と云ひ達者で生き殘るは唯だ惡人ばかりです」と呟きて余を星子の枕邊まくらべに掛けさせたり。
パパよ」と一聲、いと細く且弱き呻きの聲は寢臺の中程に起直りたる星子の口より苦げに出來たれば、先づ其樣を見るに頬は熱の爲に紅けれど痛く疲れて早や肉までも落しこと、太く開ける眼にて能く知らる、余は痛はしさに得堪へず手を延べて抱かんとするに、星子は乾きたる唇を半ば開きて余を接吻せんとするにぞ、余は頬を之に當てつゝ總て、
「孃樣、苦しくとも辛抱して靜に寢て居ねば了ませんよ、其中には直りますから」と云ひ穩かに其身體をよこたへ遣るに星子は敢て逆はずおとなしく横に成りしも、猶ほ其片手はのべて余の手を控へし儘なり、余も之を離さんとはせず輕く其身を撫摩なでさするに老女は星子の息遣ひ如何にも苦げなるを察し、水にて細き口唇くちびるうるほし、猶ほ醫者より預れる水藥すいやく數滴を垂して呑したり、之に力を得てか星子は又口を開き「パパよ」と云ひ余が俄に應ぜざるを見、幼心にも少し極惡く思ひしか羞らふ體にて、
貴方をぢさんパパぢやないの、私しのパパでせう」と問ふ、老女は獨り合點して「アヽ亡なられた旦那樣が冥府あのよから迎へにお出成つたのです、孃樣の目には必ず旦那の姿が見えるのでせう」と云ひ、前よりも猶熱心に又も念佛を唱へ出せり。
 星子は暫くにして殆ど眠んとする如く目を細くしながらも、猶余の手に縋り、
パパよ咽喉が――咽喉が痛い、貴方をぢさんにも直らないの。」
 オヽ可愛の者や、若し其痛みを余が咽に移す可き工夫も有らばと、余は人間の無力を恨みながらわづかに星子のかうべを撫で、
「音なしくして堪へてれば今に直るから」とすかすのみ、余が若し復讐の目的さへ抱かずば「われこそ御身の父なるぞ、御身の父茲に在り、氣を安くせよ星子」と云聞け、幾分か其苦みを忘れさせ得べきに、今は夫さへ叶はずと思へば、いとど悲さの胸に迫りて胸張裂むねはりさくる想ひ有り、之も畢竟那稻と魏堂の爲ならば、是にけても余が復讐は益々重くせねばならぬ次第と、余は星子にも老女にも知さずして一人窃に齒を噛みたり。
 又暫くにして星子は余が曾て羅馬より買ひ來り個は和女そなた弟分おとゝぶんなりと戯れながら與へたる人形の今猶ほ枕許に在るをゆびさし、
パパよ、弟も私しと一緒に貴方をぢさんの歸るを待て居ました、弟より私しの方が猶待て居ましたよ。」
 と云ひ、自ら起直りて其人形を取らんとせしが、此時フト老女の姿を目に留め「お朝や。」
「ハイ孃樣」
「お前、何を泣て居る、パパが歸て來て嬉しく無いか」と言掛いひかくるや忽ちに身體中を引絞る程の急激なる痙攣を起し來り呼吸さへ塞がりて殆ど絶入たえいるかと疑はるゝにぞ、余も老女もあはたゞしく立ちて星子をたすけ、柔かに又寢かせるに徐ろり/\と其痛みは靜りたれど、餘ほど星子が身の力にこたへしと見え、顏色全く青白くなり前額ひたひに脂汗を浮べたれば、余は成る可く取鎭めんとて、
「孃樣、最う物を言つてはいけません、靜にして居れば苦く無い樣に成りますから」星子は唯だ余の顏を打眺むるのみなりしが、やゝありて、
「キスして下さい、爾すればくなります」余は可愛さに堪難き余の本性をほしいまゝに現して接吻するに、星子は漸く安心せし如く眼を閉ぢ眠りしがいたみを忘れしか、少しも動かず物言はぬ事と爲りぬ。
 斯て十分、二十分、三十分とすごし頃約束の如く以前の醫師が入來り、忍足にて寢臺に寄り先づ星子の顏を眺め、次には挨拶の如く余に目配せして腰を卸すに、此時星子は驚き覺め、余を見ながらに又も起直らんとするにぞ、余はいたはりて「又咽喉が痛んで來たかの」と問ふに、星子は殆ど聞取兼る程の細き聲にて、
「イヽエ、最う全然すつかり直りました、パパが歸て來ましたからばあに着物を着せて貰つて是からパパと遊びます」と云ふ、醫師は此樣を見て、
「アヽ他人を見て父などと、腦髓が迷ひはじめました、最う長い事は有ません」と呟くに星子は此言葉の聞えぬ如く余の首にまつはり附き、
パパは何故其樣な黒い物を目に當ます」問ふ聲は愈々細くなり、今は余が外には全く聞えず「夫も矢張り目鏡?」余が無言にて點頭うなづけば「誰かゞパパの目をいためたの、パパよ、其目鏡をとつて、パパの目を見せて……」[#底本では「」」欠字]余は此請このこひに當惑して殆ど如何いかがす可きかを知らず、暫し躊躇ためらふのみなりしも是れ余が娘の臨終いまはの願ひなり。之を聽ずに濟さる可き、余は左右を顧見かへりみるに老女は念佛に頭を垂れ、醫師も其顏を俯向うつむけ居るにぞ余は幸ひと手を上げて手早く眼鏡を前の方に引外し、初て露出しに余の顏を見せしむるに星子は嬉しさに我を忘れし如く、
「オヽパパパパだ」と叫びしが、是ぞこれ此世の名殘なごり再び催す痙攣に堪へ得ずして、抱かれし余が膝の上に死したり。讀者よ此時の有樣は余詳しく記す能はず、思ひ出すさへ余が爲めに涙の種なればなり。


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