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 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        四四

 翌日の朝、余は約束の通り魏堂を送る爲め停車場ていしやぢやうに行きたるに魏堂は早や茲に在り、余の姿を見て喜ぶ色見えたれど彼れの樣子は何所どこと無く落付かぬ所あり、顏の色まで蒼醒あおざめたるは此地を去るを不安心に思ふが爲ならん、殊に彼れは少しの事もかんに障る如く、鐵道人足に差圖する聲もながら喧嘩に似、二言目には腹立しげに舌鼓したうちせり、頓て發車の時刻と爲れば彼れ余が耳に口を寄せ「夫人の事を呉々も頼みましたよ」と細語くにぞ、
「宜しいとも、全く貴方に成替つて保管します」と答ふるに、成替つての一語さへ幾等か耳障りの樣なりしも彼れは猶ほ笑を浮め、青く不安心の面持にて余の手を握れり。
 是れが余と魏堂との別れ、其中に汽笛の聲に連れ汽車は發ち、見送る間も無く其影を隱したれば余は全くただ一人の身とはなりぬ、然し唯一人なれば、誰に邪魔される恐れも無く、是より那稻を訪行とひゆきて我が思ふ存分に責めさいなむも自由なり、波漂の本性を現し、不義の罪を數え立て其上句あげくに刺殺すも余の隨意なり、全く那稻は余が手の中に在り、復讐は掌をかへすより猶ほ容易し、が恨の刃をぎ一思ひに刺殺すとも、余は謀殺の罪にはおちまじ、裁判所に引出さるゝも陪審員は情状を酌量して必ず余が罪を減ず可しとするならん、否々余は那稻を刺殺す如き爾る淺墓の復讐を爲す可からず、人を殺すは殺すより外に、猶ほ味の良き復讐の法あるを知らぬ智慧なき俗人の爲す所なり、余は初より爾る俗手段を好まずして文明人の復讐と云はるゝに足る充分の工風を定めあり、辛くとも氣を永くし、其工風を實行せんのみ、血氣に早りて普通の殘酷なる手段を取りては世にるゐなき魏堂と那稻の大罪を罰するに足らずと、胸に問ひ胸に答へて獨り此方こつちへと歩みきたるに、向うの方より息迫切いきせききつ走來はせきたる一にんは、余の從者瓶藏なり。
 瓶藏は余の姿を見て立留り「急用」として余に宛たる一通の手紙を差出すにぞ、何事ぞとひらき見るに即ち那稻より寄越せしものにて其の文短く、
「至急御出下おんいでくだされたし、星子急病にて御身に逢たしと申候まをしさふらふ
 とのみ有り。
 余は復讐の一念胸に塞るが中にも星子が事は絶えず心に掛れる故、余はハツと驚きて、
「誰が是を持て來た。」
「老僕皺薦が持參しました。」
「他に何か言はなんだか。」
「ハイ皺薦は心配氣に泣て居ました、羅馬内家の孃樣が喉に熱をお持成つたと云ましたが定めしヂフテリヤびやうの事でせう、昨晩は乳婆お朝も夫程とは思はなんださうですが今朝こんてうに至り益々重くなり、今は殆ど危篤だと申ました。」
「勿論醫者を迎へたゞらうな。」
「ハイ迎へました、併し」
「併し何うした。」
「イヤ醫者の來たのが遲過たと申ます」余は涙の胸に込上こみあぐるを覺えしも、今は泣く時に非ずと直に居合す貸馬車を雇はせて之に乘り、瓶藏には日の暮るゝまで宿へは歸らずと言置きて、一散に余が家羅馬内家を指し走らせたり。
 到れば門の戸は宛も余を迎ふる如く開きて有り、馬車をくだりて歩み入れば、彼の老僕皺薦が最と悲げなる樣子にて出で迎へしにぞ、余は息も世話せわしく「孃樣の病氣は何うだ」彼れは無言にて玄關を指さすにぞ、余は其方そのはうを見るに、今しも玄關より歩みいづるは、豫て此近邊に來りて開業せる有名なる英國の醫者なれば余は驅寄はせよりて尋ぬるに醫師は靜に余を玄關の別室に連てり、他聞を憚る如く入口の戸を閉ぢし上にて、
「實は容易ならぬ手後ておくれです、重くなる迄何の手當もせずに捨置た者と見えます、わたくしの見た所では、元來の體格は丈夫ですが近來痛く衰弱して何の病にでも感染するばかりに成て居ました、何うして今まで醫者に見せずに置いた者ですか、乳母の話を聞きますと昨夜既に尋常ただならぬ樣子が有ましたけれど、十時から後は奧方が寢室ねまこもり誰をも中にいれぬ爲め、孃さまの病氣を知せる事も出來ず、空しく朝まで待つたのだと申ます。」
 余は聞來りて殆どはらわたの絶ゆる想ひ、如何なれば那稻は昨夜の十時より其寢室に何人をもちかづけざりしぞ、讀めたり讀めたり、魏堂が分れに來りし爲め、二人寢室に閉籠り、余が昨日推せし通り分れを惜み居し者なる可し、其間に我が娘が危篤の病に罹るをも顧みざりしが、彼れが薄情は豫て知れども余に對する愛情は禽獸さへも變らぬに、彼れ禽獸にも劣る女が、如何ほど薄情なればとて己の腹を痛めたる我子だけは育てあげる親切ある可しと今まで安心し居たるは余が重々の過ちなりきと、余は遺憾遣る方なく空しく洪嘆こうたんを發するに、醫師は語を繼ぎ、
「孃はしきりに貴方を呼で來て呉れと云ふのです、夫人は若も貴方に傳染しては惡いとて容易によびあげると仰有らぬのを漸く私しが説勸ときすすめました、尤も熱病の事ゆゑ險呑は險呑ですが」余は殆ど氣をいらち、
「イヤ傳染などは少しも恐れません。」
 醫師は余の勇氣に感心せし如く頷きて、
「では直ぐ病床へ。」
「ハイ參りませう。」
「私しは他の病用の爲めおいとまに致しますが、卅分經ては再び茲へ參ります。」
「イヤお待なさい、最う全く見込が有ませんか。」
「ハイ何うも致方いたしかたが有ません、併し苦みを弛める藥を乳母に與へ、其外何事も差圖して有ますから私しが居無くとも差支へは有ません、唯だ靜かに暖かく寢かして置くばかりです、尤も今より卅分をば病が極度に達しますから、其時來て再び診察すれば又能く分ります」と云ひ醫師は敬禮して立去れり。余は是より星子の病室を指し下女に案内せられて廊下を歩みつ、小聲にて其下女に向ひ「夫人は今何所に居る」と問ふに、下女は目を見張り、「[#底本では「「」欠字]奧樣ですか、傳染が恐しいと仰有り、お寢室に籠籠とぢこもツた儘、出ておいでに成ません」余は怒りの色を隱し「孃が病氣に成てから、夫人は未だ孃の顏を見ないのか?」[#底本では「」」欠字]
「ハイ一度も御覽に成ません。」
 余は益々愛想をつかし、是よりは又尋ねず、差足しつゝ星子の病室へと入行いりゆきたり。


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