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 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        四二

 勿論余が屡々那稻の許を訪ふに連れ、娘星子は益々余にしたしみ曾て其の父波漂を慕ひし如く余を慕ふにぞ、余は波漂が幾度も話し聞せし東洋の「勝々山」を初め、近年英譯せられし「爺は山へ柴刈に」などの昔譚むかしばなしを語り聞すに星子は親船に乘る如く、余の膝に乘り聞きながら眠り込む事も多し。星子を護育もりそだつる乳婆のお朝と云へる老女は余をも育てたる女なれば、若しや余の聞かせる話と、波漂の曾て聞せたる話と同じき爲め、身の上を疑ひはせぬかと氣遣へども、お朝は彼の從者皺薦と違ひ、既に年老て其目も充分に明らかならねば少しも疑ふ樣子なし、唯だ皺薦ばかりは逢ふ度ごとに余を疑ふの心を深くするに似たれば、余は成る可く彼れに顏合さぬ樣にすれど、お朝には爾る用心に及ばずと思ふ故、余は幾度も星子をお朝につれさせて余の宿へ伴ひ來るに星子もお朝も此上なく打喜び、一日遊びて歸る事も度々なりき。
 かくて十二月の中程に及びし頃、何故にや星子は身體の次第に衰へる樣子あり、頬の色も一日一日に艷を退き、且は其肉も落ち眼は日頃よりも廣く開きて小兒らしき愛嬌を失ひ何とやら悲げに見え、少しの遊びにもたゞちに疲れる樣子なれば余はひそかに心を痛め乳婆に注意せよとつぐるに、乳婆は宛も母なる那稻の邪慳なるを咎むる如く唯深く嘆息するのみ、余が心は益々安からず或時那稻に向ひ、一般に小兒の育て方などを話し、つひに星子の此頃の樣子を語るに那稻は別に氣にも留めず「ナニ那の子は餘り菓子などを食過たべすぎからの事です」と一ごんに言拂ひたれば余は殆ど腹立しさに堪へず、此女め己れの所天を愛せぬのみか我が子をまで愛せざるやと、腹の中に罵りたれども如何とも詮方なければ、此の折は先づ此儘にして止みたり。
 此頃は氣候も追々寒くなり、船遊びは止みて更にさかんなる夜會の頃とはなりたれば余は一夜の舞踏を催さんものと其仕度を爲し居たるに、天の助けとも云ふ可きか余が復讐を一入推早める不意の仕合せこそ出來にけれ。茲に其次第を記さんに、此月十七日の晝過なりし彼れ魏堂め案内も乞はずあわただしげに余の室に飛入來とびいりきたり、何か氣に掛る面持にて、歎息と共に其身を椅子の上に投げたれば余は怪む調子にて、
「オヤ花里さん何か心配な事が出來たと見えますネ、何事です、金錢の心配ですか、夫ならば私しの金を幾等でも銀行から引出してお遣ひ成さい」と云ふに彼れ難有ありがたげに笑みたれど猶ほ腑に落ぬ樣子にて、
「イヤ其樣な事では有ません、本統に弱りました。」
「ヱ、夫では夫人の氣が變り、貴方と婚禮するのがいやに成たとでも云ふのですか。」彼れ猶ほ此點だけは勝誇る人の如き笑を浮めて、
「イヤ其樣な事では有ません、縱や夫人が否に成ても決して否とは云はせませぬから。」
「ヱ、否とは云はせぬ、とは又きつい劍幕ですネ、何か夫人が大事な秘密を貴方へ握られて居る樣にも聞えますが」と余が笑ひながら云ふ言葉も彼れの灸所きうしよに當りしか彼れは少し面目無げに、
「イヤ是は私しの言過いひすぎです、勿論否と云ふも應と云ふも全く夫人の自由ですが、今まで私しを勵して置て、今さら否と云ふ樣な其樣な定らぬ了簡れうけんの夫人では有ませんから。」
「では何事です。」
「實はネ、當分の間、此土地を去り羅馬へ行かねば成ぬのです。」
 余は是だけ聞き、早や嬉しさの胸に滿つるを覺えたり、此土地を立去るとは戰場を空にして敵なる余の蹂躙に任せるなり、余は獨りにて悠々と戰備をとゝのへ、彼が討死に歸るを待たん、海路の日和とは此事なりと、躍る心を顏には示さず、
「ヱ羅馬へ行く、夫は大變ですネ。」
「ハイ大變でも致方いたしかたが有ません、實はネ。羅馬に私しの叔父が有て今死掛て居ると云ひます其叔父が豫てより私しを相續人と定め、しねば其財産が總て私しの手許へころがり込む事に成て居ますが、今行て死際の看病せぬと、又何の樣な氣に成て其遺言書を書替るかも知ません。」
「成る程、夫は行かぬと云ふ譯に行きますまいネ。」
「ハイ代言人が爾云ふのです、何うしても今行かねば叔父の身代を人に取られると。」
「では、おいでなさい。留守中の事は及ばずながら私しが。」
「イヤ爾仰有おつしやツて下されば本統に安心します、實は貴方へ命より大事の者をあづけて置ねば成りませんから。」
「ヱ、命より。」
「ハイ、と云ふのは夫人の事です、アノ通り年は若くて綺倆は好し、眞に引手數多と云ふ者ですから、私しの留守中に誰か嚴重に番をして他人を夫人の許へ寄附けぬ樣にして呉れる人が無ければ、私しは一日も此土地を去れません、貴方ならば年頃と云ひ身分と云ひ此上も無い番人、イヤサ番人と云ふは失禮ですが此上も無い保護者ですから、私しが歸る迄の所を充分に取締ツて、何うか夫人の身に過ちの無い樣に嚴重に保護して頂き度い者です」アヽ彼れ全く余の術中におちたり、誰よりも彼よりも余が一番の險呑なる大敵なるを知らざるか、盜人に鍵を托すとは彼れが事なり。余は極めて眞面目になり、
「貴方が爾うお頼みなさらずとも、私しもの先代よりの親友として、夫だけの注意はせねば成ませぬ。」
「爾ですとも、若しも夫人の目に留り、夫人の心を動かせる樣な紳士でも有れば……」
 余はグツと勇み立ち、
「爾ですとも夫人の心を、相當の持主より盜み取る惡紳士でも有れば、夫こそ私しが其奴そのやつの身體を鞘の樣に私しの刀を根本まで指通さしとほさねば勘辨しませぬ」と彼れが曾て那稻に向ひて吐きし言葉を其儘に繰返すに、彼は何とやら覺え有る語と感ぜしにや、最と怪しげに余の顏を見上げたり。


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