白髮鬼
黒岩涙香
四一
是より凡そ一月ほどは何事も無く、極めて滑かに過ぎ行きたり。余若し胸に復讐の大目的なかりせば、余は笹田折葉と云ふ僞名の儘にて生涯を送る氣に成りしやも知れず、笹田折葉と云ふ新貴族は昔の伯爵波漂よりも猶手厚く待遇され、殆ど交際場裡の王と迄立られて何不足なき身の上と成り、榮耀榮華總て心の儘なるに至ればなり。余の噂は到る所の人の口に登り、新聞紙なども余が一舉一動を書立て報道し、富る人も貧き人も笹田伯爵の身代ばかりは底が知れずと言囃すに至れり。夫も無理ならず、余は宿の厩に八頭の名馬を飼せ、内四頭は二頭づつ交代に余の馬車を引く用に供へ、殘る四頭は余と交る紳士、誰にても貸與へて送り迎への爲に用ひ、猶ほ此外に上等の馬車二輌、遊船と稱する小蒸氣船一艘、是はネープルの灣に浮べて廣く交際家の乘るに任せるなど、贅澤と云ふ贅澤は極めぬ事無き勢なれば、孰れの宴席にも伯爵笹田の姿見えずば宴席の體を爲さずと云はれ、年頃の娘持つ親達は此の白髮の老人を婿にせんとて、折に觸れ通傳に應じて巧に其娘を紹介し余の面前に連來る、其有樣は奴隷商人が奴隷を豪家の庭に引出して主人の撰び取るを幸とするに異らず、殊に驚くべきは斯る妙齡の美人達が孰れも「所天には金滿家を撰ぶに限る」と云ふ當世の格言を服膺して、余をば年若き美男子よりも猶一入追ひ慕ひ羞らふ體、媚る體、余を迷はさうとする體、皆眞に迫り老人の心を蕩さんばかりなり、宴會の席にては余の左右に必ず幾群の美人集ひ其細語く言葉の中には「先ア那のお髮の綺麗なこと」などと云ふ聲の洩るるを聞けり、白髮も當人に金さへ有れば、少年の頭髮より猶美くしく見ゆるものにや。勿論斯る有樣なれば市内の商人我れ先に余の御用を勤めんと欲し、余の新從者瓶藏に樣々の品を贈れど、瓶藏は世に珍しき正直なる男にて賄賂に目が眩み余を惑すなどの事を爲さず、一々其事を打明けて余の差圖を待つ程なれば、余は飛だ良き從者を置き當たりと深く心に滿足したり。
斯る中にも余が最も心を盡せしは目指す敵魏堂に對する仕向方なり、復讐の大鐵槌を打卸し彼れの幸福を微塵に碎く前に當り、余は充分彼れを安心させ、彼れが無二の友と爲り、彼れを心醉させねばならず、昔し波漂が彼を信ぜし通り、彼れに余を信ぜしめねば余が復讐は全からずと余は斯く思ふが爲め、有る丈の親切を彼れに盡し、或は彼が歌牌の負債を余は陰に廻りて窃に仕拂ひ、彼れを且驚き且喜ばしめ、或は彼れが欲相に噂する品物を買ひ贈るなど、痒い所へ手が屆く程に爲したれば、幾週も經ぬうちに彼れ全く心醉ひ、余を信ずる事は己れを信ずる如く、何も彼も余に打明け余に相談する程とはなりぬ、アヽ彼れ余を恐る可き敵と知らずして其身の秘密を打明くるとは愚かと云ふも仲々なり。
余は猶ほ幾度か彼れ及び彼れの相知れる若紳士達を集め、興に乘じて彼に充分の酒を呑ましむるに彼れ貧しかりし以前と違ひ、何事にも慢心を生じたる上なれば、一切の留度を失ひ、泥の如く溶けるまでに食醉ひ、全くの泥醉漢と爲り、職人か何ぞの樣に俗極る本姓を現して蹌踉きながら歸り行く時も多し アヽ彼れ歸り行くは孰れの家ぞ、問ふ迄も無く余波漂の家、余が妻那稻の許なる可し。那稻は類の無き毒婦とは云へ上流社會の毒婦にして、世に云ふアバ摺の下等なる女と違へば、飽までも優美高尚なる振舞をこそ喜べ、醉泥れて前後も知らぬ如き下郎的の舉動には愛素を盡す事必然なれば、余は魏堂の蹌踉き行く樣を見る毎に心の中にて笑ひたり。
斯く魏堂を蕩しながら一方には又那稻に向ひて余は徐ろ/\と懇意を深くし、何の日、何の時にても自由自在に其家に入行く丈の許を得、或時は余の書齋に入り、余が豫て愛讀せし書を取出して讀み、或は娘星子を抱上て戯るゝなど實に他人としては此上なき特權なり。去れど那稻の所天波漂としては誠に異樣なる特權と云ふ可く、風の音にも下僕の影にも猶ほ用心せざるを得ず、殊に余が勤むるは少しも魏堂の疑ひと嫉妬とを引起してはならぬとの一心に在れば、一たびも那稻の許に夜を深したる事は無く、必ず魏堂よりも先に歸り來たれり、先づ那稻に對しては父とも云ふ可き有樣にして、誰の目にも怪しからぬ清き親切をのみ盡すに、流石の妖婦は余が痛く魏堂の嫉妬を憚ると見て取りて、最早や魏堂をからかひ怒らせる如き振舞無く、魏堂の見る前にては余に對して充分の他人行儀を守る事、宛も昔し波漂の前にて魏堂に對して他人行儀を守りしに異ならず。
去れど魏堂が少しの間でも其席に居無くなれば那稻の眼は忽ち秋波と爲りて余の黒眼鏡に向へり、或は夫と無く魏堂を賤しめ辱めて余を引立て、余に寄添ひては離れ難なき振を示し、余も又、木石にあらぬを示して時には其手を觸れども[#「其手を觸れども」は底本では「其手を振れども」]那稻は咎めもせず、其手を引もせず、却つて握らるゝの長きを祈る者の如く話の調子を勵し行き、宛も話に身が入りて己が手先を余に握られ居るや否を忘れたる如くに持做し、少しも余に極惡き想を爲さしめず、是のみならず朝な/\に意中の人が互に相尋ぬる如く、余の許へ菓物などを贈り來れども余は之を他言せず、從者瓶藏とても他言などする如き男にあらねば、魏堂は此有樣を疑ひ知る由も無し、夫や是やにて察すれば那稻は確に魏堂の目を掠めて余の心を得んと決したる者にして、余も又心を得られんと決せし者なり、余が他の宴席などに招かれ、外の婦人達に持做れし話をすれば、那稻の顏にはじらさるゝ戀人の如く、陽に不愉快の色見ゆるも可笑し、余は大分に我が道の進みしを覺ゆるにぞ、時々は魏堂の嫉妬を引起して見度しと思ひ夫と無く仄めかせど、今は魏堂、深く余を信用して少しも嫉妬を起さぬこと宛も昔しの波漂に似たり、而も彼れ折々は余に向ひて波漂を評し「彼れは氣の毒な愚人でした、アレほど欺され易い男は有ません」と云へり。斯く云ふ魏堂自らこそ氣の毒な愚人にして、易々と余に欺され居る者に非ずや、愈々余が復讐の大鐵槌を打卸す時に爲らば知らず彼れ如何の顏色を爲さんとするや。