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 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        四〇

 魏堂と並びて食堂を出で、縁側に歩み來れば、那稻は魏堂の余に打解けたる樣子を見、おほいに安心せしに似たり、察するに那稻は先刻よりして魏堂が若し嫉妬の爲め何か亂暴なる振舞に及びはせぬかと窃に恐れ居たりと見ゆ、アヽ魏堂の樣子既に那稻を恐れしむるとは、是も余が復讐に取り都合好き一ヶ條なりと余は腹の中でうなづきたり。頓て那稻が持出もちいづる珈琲を呑終りし頃、後園こうゑんかたに當り呻吟する犬の泣聲聞ゆるにぞ、余は直に愛犬イビスが邪慳に繋れ居る事と悟り、故と怪む調子にて、
「オヤ、あの聲は何でせう、夫人」と問ふに、
れは波漂の飼て居たイビスと云ふ犬ですよ、時々アノ樣に厭な聲を出して困ります。」
「ヘエ、何所につないで有ますか。」
後庭うしろにはに繋で有ます、變な犬で波漂が亡なりましてから、いつも娘星子の室に來て、一緒に寢たがツて仕方が有ませんから堅く鎖で繋せました。」
 余は聞來りて實に異樣の想ひを爲したり、彼れ或は飼主に忠義なる其天性より、余の娘星子の身の上を氣遣ひ、傍に附添ひまもらんとするに有らぬか、兔に角彼れは余に眞實を盡す爲め、不實なる奴等より痛く罸せられし者なり、余は急に彼れを見度き心地し、
「夫人、私しは豫てより犬がすきで、又不思議な事には何の樣なきつい犬でも私しにはまるで主人の如く初から馴染なじみますが、何うでせう其イビスとやらを是に連出し私しに見せては下されませんか。」
 那稻は怪みもせず、
「お易い事です、花里さんといて遣て下さいまし。」
 魏堂は逡巡しりごみし、
「イヤ是ばかりは御免蒙ります、先日ももう少しで私しに噛附く所でした、此頃は宛で氣でも違ツたかと思はれます。」
「本統に貴方を見るとかたきの樣に狂ひます、其癖星子が傍へ行くと尾をふつて何時までも星子を遊せて居る樣ですが」
 余は心の中にて益々イビスの賢さを知り、彼れは魏堂めが此家にて早や主人顏するを心憎しと思ひ、余に代りて彼れを追拂はんと勤め居る者なり。
「では私しが自分で行き其繋ぎを解て遣ませう。」
「イエ夫には及びません、皺薦に解かせませう」と云ひただちに皺薦を呼びて命ずるに、皺薦は又もや最と怪げに余の顏を眺めながらかしこみて立去りしが、是よりわづか五分間も經ぬうちに彼方の邊にて二聲ほど最と嬉げにほゆるを聞く間に、早や庭木を鳴しながら一散に馳來かけきたる大犬は即ち是れイビスなり、彼れは魏堂にも那稻にも目を留めず、一直線に余の所に來り、殆どけつまろびつして余が膝に飛掛り、余が手を嘗め足を吸ふなど其樣主人の返りしを嬉びて自ら制し兼たるに似たり、那稻も魏堂も無言の儘、最と怪げに此樣を眺むるにぞ、
「何うです、此通りでせう、何の犬でも私しへは皆かうです」と云ひながら其かうべを抑ふるに、彼忽ち身をよこたへ、唯だ其首だけを擧げて余を眺むるは余が姿の痛く變りしを氣遣ふに似たり。
 然り余が姿は變りしも彼れの眞實なる天性は之に欺かるゝ事なく、余を主人として少しも疑はず、余は「オヽ可愛や」と云ふ如くに再び其首輪の邊を撫づるに、何故か那稻は痛く不安心の色を現し、顏を少しく青くして其手先まで震わせるにぞ余はわざと、
「オヤ夫人、貴女は此怜悧な犬を恐しいとお思ひですか。」
 那稻は強て笑を浮め、
「イエ、他人に馴染なじんだ事の無い此犬が貴方へ」と言掛けて又怪げに「彼れは波漂より外の者へは決して其樣に仕ませんが實に不思議ですよ」アヽ那稻、若しや之が爲余を波漂の再生だと疑ふには至らざるか、余が少しあやぶむ間に魏堂も同じく不審氣に、「本統に不思議です此頃私しの顏さへ見ればうな[#「口+曹」、第3水準1-15-16]りますのに今は貴方へ氣を取られ私しの事を忘れて居ます」と云ふ、此聲を聞くやイビスは忽ち魏堂を睨み「ナアニ忘れては居ないぞ」と云ふ如くにうな[#「口+曹」、第3水準1-15-16]り初しも余が制止に從ひて直にみたり、此犬實に魏堂の汚れたる心底しんてい見拔みぬきし者にや、余が存命中に魏堂にも能く馴染居たるに今に及びて斯く彼れを憎むは、殆ど畜生の所爲しよゐと思はれず。
 去れど余は唯だ魏堂と那稻の怪みを解かん爲め、殊更聲を落着けて、
「イヤ犬の天性ほど鋭敏な者は有ません、人を見てすぐに此人は犬好いぬずきか犬嫌ひかと云ふ事を知て居ます、私しは非常な犬好ですから、夫ゆゑの犬でも私しを親友の樣に思ふのです、少しも不思議は有ません」と云ふに二人とも漸く合點せし如く其顏色をも囘復したれば、余は猶ほ犬を膝許に置きしまゝ月の出る頃まで話し居たり。
 愈々分れ去るに臨み「私しが繋ぎ附れば犬は何時までもおとなしく仕て居ます」と云ひてイビスを後庭おくにはに繋ぎ遣り斯してわかれを告げけるが、魏堂は是非とも余が宿まで送り行んと云ひたるも、余は一人が氣安しとて之を辭し、月に歩みて羅馬内家の門をいでしが、思へば此後にて魏堂と那稻が余のうはさを爲せるに相違なく[#「研のつくり」、第3水準1-84-17]を偸み聞かざれば猶ほ充分安心し難き所あり、好しと心に點頭うなづきて余は先にも忍びし事の有る彼の裏門の小徑をくゞり、庭に行きて木の影にひそみ窺ひ見るに果せる哉、果せる哉、魏堂は最と醜き體にて那稻の身體を半ば抱き、少し嫉妬を帶し聲にて、
「那稻、お前は本統に邪慳だよ、おれに何れほど心配させたか知れぬ、伯爵に秋波いろめばかり使ツてサ」那稻は殆ど平氣にて、
「使はふと使ふまいと私しの勝手だよ、老人と云ふけれど隨分立派な人ぢや無いか、アノ黒目鏡を外せばお前より好い男かも知れないよ」と云ひ、魏堂の尋常ただならぬ顏を見て更に、
「夫は嘘サ、あして機嫌を取て置けば又夜光珠を呉れるかも知れないからさ」[#「知れないからさ」」は底本では「知れないからさ、」]
「夜光珠を呉れゝば愛する氣か、爾じやア有るまい、夫れ見なよ、夫だのに己に餘計の心配をさせる事は無いぢやないか、アノ老爺おやぢ、那あ見えて呆れる程自惚うぬぼれが強いぜ、先刻も何と云ふかと思へば、女の方から愛を求めねば決して女を愛さ無いとサ、アノ年で女から愛を求められるかと思ツて居る、エ呆れた者だらう」那稻は別に賛成せず、
「オヤ爾、男は夫くらゐ氣位が高いが好い、無暗むやみに女の機嫌を取りなどする見識の無い人は私しは嫌ひだよ」と云ひしが、何思ひけん忽ち眞面目の調子に返り「だけれど私しの氣の迷ひか知らないけれど、アノ伯爵は實に能く波漂に似た所が有るでは無いか」[#「有るでは無いか」」は底本では「有るでは無いか、」]
「己も初めて見た時に既に爾思たよ、何うかすると生冩しの所が有る」[#「生冩しの所が有る」」は底本では「生冩しの所が有る、」]
「爾思ふと何だか薄氣味が惡いねえ。」
「ナアニ己は其晩すぐに華族名鑑を調べて見て疑ひが晴れた、アレは波漂の母の兄だゼ、自分には今金持に成たからなまじ親類と名乘ては夏蠅うるさいとでも思ふのか爾までは打明けぬが、全く母の兄で博奕の爲めに食詰めて印度へ出稼ぎに行たのだ、爾う血筋が近いからて居るのは無理は無いオヽ寒く爲つて來た、ドレ内にはいらうよ」と云ひ手を取合ひて奧にり其姿見えずなれり。
 此樣子にては彼等到底余は波漂の再來なりと見破る筈なく、彼等の死運は全く余の手の内に在る者なれば最早や余は前後に顧慮こりよする所なし、成る丈け大狂言を急がねばならずと、頓て安心して此所ここを立去りたり。


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