<<戻る  目次  次へ>>
 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        三八

 皺薦は既に元の席にふくし全くの無言と爲れば那稻はおほいに安心せし如く、是より自ら此席の達者たてもと爲り頻りに談話を初めたり。
 讀者よ、那稻の話は巧みなる事は余はかねて知れり、去れども是ほどまでめうを得しとは實に思寄おもひよらざりき、彼れ全く余の魂を奪ひ、余の心を迷はせ、余をとりこの如く奴隷の如く蠱惑する所存にて有る丈の秘術を盡す者と知らる、彼れは其聲の麗しきのみに有らで其舌も又世にたぐひなきほど爽かなり、殊に又談話の秘訣たる、自由自在に人を笑はせ人を驚かせ、人を面白がらせる呼吸を知れり、幾日ぜん新聞紙にて讀知れる事柄も那稻の口よりいづる時は、新聞記者の筆に無き警語妙句けいごめうくの其間に加はりて古きも新しくなり、平凡も絶妙と爲る、忽ちにして諷刺ふうし、忽ちにして諧謔かいぎやく、是ほどの才辯は女流社會に多く得難し、孰れの交際場裡に連行つれゆくも必ず其席の女王たる値打は有らん、余は感心するよりも寧ろ腹立しくなりたれば、ズツト心を冷淡にし、この才辨に釣込れぬ用意を爲しつゝ批評家の耳を以て之を聞くに、巧みは成る程たくみなれども無瑕むきずとは云ひがたし、或人の言葉に「女流のはなしは谷川の水音に似たり、聞く耳には爽かなれど深さとては更に無く、直に底の知れる者なり」と云ひし如く、如何にも出所しゆつしよ淺はかにして窺ひ難き泉源せんげんの有るに非ず、アヽ是ほどならば未だ余の心を迷はすには程遠しと、余は漸く多寡を括り充分に安心したれば、是よりは余もあへて劣らず氣を輕くして調子を合すに、話益々熟し行き、愈々佳境に入るに從ひ此席は全く余と那稻の席と爲り、魏堂は有れども退け者に異ならず、余は初より魏堂の樣子に氣を配るに、彼れは那稻と余と親密に見ゆるに從ひ徐々そろ/\不興氣ふきようげなる色を増し、はては殆ど心配氣、否殆ど嫉ましげ悔しげに其眼を光せる迄に至りしかば、余はしひて話を彼れの方に向け幾度と無く、
「ネエ花里さん、貴方も爾は思ひませんか」など、彼れの言葉を釣りいださんと試むれど彼れ唯だ止を得ずして、
「ハイ」とか「イヽエ」とか味の無き一ごんにて余を追ひ拂ふのみ、夫さへも怒りを帶し口調なれば、那稻も夫と見てか、
「ネエ伯爵、花里さんは此通り不調法ですもの、是では本統の交際の席には出されぬでは有ませんか」と云ひ、更に魏堂に向ひ「貴方も爾では有ませんか、伯爵を案内して茲に來ながら、何故其樣に無愛想です、此樣な打解けた席で話を稽古せねば何時までも人の前へは出られませんよ」と云ふ。
 實に是れ魏堂を足の下に蹶仆けたふし、地の底に蹈埋ふみうづめる如き言葉なれば魏堂最早や堪へ兼し者の如く、一入ひとしほ眼を腹立しげに光せたり。去れど那稻は魏堂の面白からぬを却て面白しとする如く、事に紛せて心地好げに打笑ひ、魏堂に怒り狂ふ暇を與へず、猶も話を進めんとするに、魏堂の堪忍は最早や盡きたる者の如く、彼れ顏色がんしよくを青くして唇をかすかに震はせ、今にも一句の隙間あらば余か那稻に掴み掛らんと待つに似たり。
 余は何とかして彼れを慰め今の内に取鎭めねば成るまじと心配するに流石那稻は氣を利かせ、
「ツイ浮々うか/\と獨りで多舌しやべつて居ましたよ、殿方は又殿方同士で、女に聞かされぬお話が有ませうサア私しは是で退きますから、後はお二人で私しの惡口でも、世間の女の噂でも御勝手にお話なさい、其代り私しは座敷の縁側でコーヒの用意をしてお待申しますから」と云ひ、余に八分魏堂には唯だ二分、美しく笑顏を見せて立上れり。
 此時は既に從者皺薦も去りたる後なれば、余は宛も女皇を送る如き敬意を表し、ただちに立ちて先に廻り、手ずから出口の戸を開くに、那稻は口及び眼にて、
「是は有難う御座います」と一樣に會釋して出行いでゆきたり。
 余は再び卓子に返り、先づ酒を魏堂のこつぷに注ぎて坐するに魏堂は一語をも發せず、猶ほ鋭き目附にて光る銀の皿を見詰るのみなるはさながら己れの心を鏡に冩し、其の怒りの一方ならぬを眺むるに似たり。
 余も暫しは無言にて靜に我が復讐の此後の方寸はうすんを考ふるに、勝の見えたる將棋にて猶ほも其勝を立派にせん爲め、わざと落着きて考ふるに似、其面白さ云ふばかり無し、好し/\是よりは擒縱自在きんじうじざいゆるやかに次の手を下し、充分機會の熟するを待ねばならず、殆ど獨言の如く、
「アヽ實に美人だ、恐らく天下の第一人だ、其上に心と云ひ智慧と云ひ」と呟きて猶ほ終らぬに、魏堂は聞咎めて突然其顏を上げたれば余は彼れに先んじて「花里さん、貴方のお見立には實に感心しましたよ」彼れ怒りのアハヤ破裂せんとする聲にて、
「エ、何です」と嚴しく問ふ、
「アヽ若い、若い、貴方は猶だ年がお若い」と心廣げに笑ひながら、「コレ花里さん、何故私しへ其樣に隱します、貴方が是ほどに思つて居るのを夫人の方で何とも思はぬとならば、夫こそ夫人が愚かです。」
 彼れ驚きて目を張開き、
「ヱ、ヱ、夫では貴方は。」
「ハイ、私しは何も彼も見て取ました、貴方が夫人を愛して居るはギラギラ明るく分りましたのみならず私しは賛成です、地の下の波漂とても必ず賛成して居りませう、第一アレ程若く美しい妻が生涯後家で暮すだらうとは幾等馬鹿でも思ひますまい、既に後家では暮さぬとすれば氣心の知れぬ者に渡すより、自分の弟の樣にした第一の親友に渡すのが其本望に違ひない、私しは波漂に成代ツて賛成します、アレほど美しい未亡人を若しも波漂の憎む樣な人の妻にせば波漂ばかりか、叔父同樣の私しまで遺憾です、貴方へならば自分の後を我が弟につがした樣に滿足しませう」と云ひ、余は勇み立つて一杯を傾くるに、淺墓なる愚人魏堂、今までの疑ひは朝日に逢ふ霜の如く消盡きえつくし、歡びに我を忘れて熱心に余の手を取り、
「伯爵、今まで貴方を疑ツて重々濟ませんが、實に私しは嫉妬の爲め氣が狂ふ所でした、貴方が夫人の愛を得る積で居るかと此樣に疑ツて貴方を殺さうかと思ひました、本統に淺墓な私しの罪をお許し下さい」と余が前に鰭伏ひれふさぬばかりに謝したり。


<<戻る  目次  次へ>>


目次へ戻る