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 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        三四

 は云へ僞奴は余の深意を悟らず、那稻が余を厚く待遇もてなせしも全く一通の世辭にして余とても我が頭の白髮に耻ぢ、ねたまるゝ如き振舞をする者に非ずと、彼れ全く斯く思ひつむるに至りしかば、益々機嫌も好くなりて、明日夫人の許を問ふ可き時間など打合せたり。
 猶も彼れ樣々の世間話を持出んとし余も亦事に托しては彼れの了見を試みんと思ふにぞ、彼れの話を妨げんとせず、却て我が思ふ方角へとおびき行くに、彼れが義理も徳義も解せずして唯だ私欲一方の人間たる事、愈々以て明白なり、彼れの品格をきずつくる如き言葉、續々と彼れの口より出來いできたれり、夫等の話を一々茲に掲ぐる要なけれど、唯だ其一二を參考までに記さんに、
 彼れは男女なんによの間を説き、少しも定りたる操無き者と爲し「ナアニ女が廿歳はたち前後の時は隨分見ても綺麗で、殊に愛嬌も有りますから、男は其愛嬌を値打と見て妻とするのです、夫が追々年を取れば愛嬌は次第に消え、美しい顏も皺と爲り、白い色も赤くなり、優しい姿も肥太ツて醜くなります、おまけに所天に慣るに從ひ、勤ると云ふ氣が無くなり、初は厭な事も推隱して曲て笑顏も作り、所天の機嫌を取た者が、末には其の遠慮が消え、眞實嬉しい時の外は喜びもせず、腹の立つ事が有れば容赦も無く腹を立ると云ふ樣に、總てに飾り氣が無く成ますから、愛嬌は消て仕まひ取る所の無い荷物と爲ります、サア初め愛嬌を見込で買た者が、愛嬌の無い事に爲れば、丁度旨からうと思て買た食物が味の變ツて無味まずくなると同じ事ゆゑ、打捨る外は有ますまい、世間の所天が浮氣をするは總て此理屈です、法律で一夫一婦などと限たのは實に人情に合はぬ仕方で、譬へば一旦買た食物は假令たとひ味が變ツてもたべねばならぬ、決して外の食物に指を染るなト云ふのと同じ事です」と云ひ猶ほ淺墓なる議論にて宗教道徳を罵る故、余は愛想をつかしながらも故と言葉を合せ、
「夫は爾です、今の世界は何事も當人の都合次第で、都合によつては親友をも欺ねば成ません、明日此者を殺さうと思つても、笑顏を見せて親しく交ツて居る樣な場合も有ませう。」
「爾ですとも、若し今の世に基督きりすとが生れて來れば必ず十かいへ追加して、決して他人に見破るるなかれと云ふ第十一誡を作りませう、他人に分らぬ樣に、惡き評判うはさを立てられぬ樣にすれば何の樣な惡事でも構ひません、つまり露見すればこそ惡事、露見せねば惡とも善とも云はれずに濟のです」斯く云ひて今度は女の方に移り「女の婚禮前は何よりも操が大切です、若し惡い名前を受ては生涯好い所天を持つ事が出來ません、其代り愈々婚禮すれば、操など云ふ事は要らぬ事で、即ち第十一誡を能く守り、人に見破られぬ樣にすれば、よしや他人の子を孕んだに仕た所が所天の子と見分の附く者で無く、誰にも咎められずに濟むのです、畢竟見破られると云ふは度胸も智慧も無い女の事、眞に度胸と智慧の有る女は死ぬまでも所天の眼をくらまおほせます」と云ひ次は所天の事に及ぼし、「或は又分ツた所が所天は如何ともする事が出來ません、怒ツてもし世間へ分れば自分のはぢ、離縁をすれば妻は其後天下晴れて奸夫の妻と爲るかも知れず、やむを得ず決鬪するとした所で、勝つとまけるは其時の運次第、事に由ては姦夫まをとこ射殺いころされます、縱し又勝たとしても、妻の眼から見ると決鬪の爲め所天の値打は益々下り、妻は愈々先の男を大事に思ふ事に成ます、ですから、私しなどは妻をぬすまれて居る人の顏を見ると本統に可笑しくなります。」
 是までは余も笑顏にて聞きたれど最早や顏色を包む能はず、此上一刻でも茲に居れば我を忘れて彼の咽へ飛附くに至る事必定なり、余はやむを得ずして立上るに僞奴も其樣子を怪みて、
「オヤ伯爵、貴方は何うかなされましたか、お顏の色が大層變ツて來ましたが。」
「イヤナニ、是は私しの持病です、永く一所ひとつところすわツて居ると直に目暈めまひが仕て來ます、實に年取ると致し方が有ません。」
「ブランデーでも上ませうか。」
「イエ此樣な時には唯だ靜かに寢る外は有ません、失禮ですが宿へ歸りませう、先刻求めたの畫類は後ほど下部しもべを取に寄越しますから」と云ひ、是にて魏堂に分れを告げ、余は殆どにぐる如く我が宿へと歸りたり。
 歸りて居間に歩み入れば卓子の上に、草の莖を以て編たる美しき籠ありて中には蜜柑を初め樣々の見事なる菓物くだものを盛れるにぞ、余は前世の波漂の家に斯る菓物の多かりしを思出おもひいだし、何人が茲に置きたるやと疑ひ、其籠を手に取りあぐるに、添へて一枚の名刺あり、其傍らに、
明日みやうにちお尋ね下さると言給ひし先刻の御約束を、思ひ出させ給ふ爲めに庭園の菓物を、
羅馬内伯爵夫人より、笹田伯爵に贈り候、
 文字は見覺みおぼえある那稻の筆なり、アヽ彼れ、余が富の一かたならぬを見て取り、早や余をとりこにする積にて斯もふざけたる眞似をするにやと、余は今まで堪へ居し怒を一時に發し、室の隅へと其籠を叩き附けたり。


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