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 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        三二

 成る程僞奴は不意に余を那稻に逢はせる積りにて豫て那稻と打合せ置きたる者なる可し、余は嬉しげに「イヤ最う此樣な計略には何度でも罹り度い者です、斯も美しい夫人のお顏を出拔に拜見するのは世に是ほどの有難い驚きは有ません、殊に夫人は波漂殿が亡なられて未だ間も無く、其悲みとてもお忘れ成さるまいに、特別に私しの爲め茲までお出下さツたのは實に私しの身に取り、此上も無い名譽です。」
 那稻は此言葉を聞き、宛かも死せし波漂を思ひ出だし悲しさに堪えずと云ふ如く聲を曇らせ、
「ネエ先ア、何うして波漂が亡くなりましたか今考へても夢の樣です、本統に死だ者とは思はれぬ程ですよ。」
 思はれぬ筈なり、波漂は此通りいきて居る者をト余は腹の底にて冷笑するに、那稻は猶ほ半ば泣聲にて「彼れが活て居ますれば何れ程か貴方のおいでを喜んだ事でせう、夫を思ふと、わたくしは、今更の樣に悲しく成ります」と云ふ中に涙は兩の目に浮び來れり。
 涙を浮かべる丈がだ僞奴よりは殊勝なりと云ふ事勿ことなかれ、讀者よ眞に男をだます程の毒婦ならば涙は自由自在に出る者なり、男子が常に婦人の術中に陷るはいつも此の上部の涙を眞實の涙と思ひ違へての爲なり、余は幸ひに今まで滿三年のも那稻を妻とし、幾度も彼が余の爲めに泣き、余の爲に悲しみたる場合を知る故、既に其間の事を熟々つら/\と考へて、其時の涙は皆空涙なりしを悟り、此後何の樣な事ありとも再び那稻の涙には欺かれじと既に此復讐を初むる前我がほぞを固めたる事なれば少しも此涙に心動かず、却て是が人を欺く奧の手かと憎さを催す程の事なり。去るにても余に向ひ散々波漂を罵りたる彼れ僞奴めは、此場合何の樣な顏色をして居る事かと余は夫と無く彼れに振向き、其顏を那稻の顏と見較みくらぶるに、彼れは流石に極り惡きか、空咳に紛らせて顏をかはせり、アヽ空咳と空涙、孰れも僞りたるは同樣なれど、人を欺く手際に於ては那稻が遙に僞奴の上なり、僞奴實に惡人とは云へ、猶ほ那稻の足許にも追附かず、余は斯く思ひて腹に呑込み、更に然る可き慰めの聲を作り、
「イヤ夫人、今は最う歎いても詮ない事です、夫よりも御自分で病にでもならぬ樣諦めて浮き/\と氣を持直すのが大事です、殊に貴方の年頃と美しさではナニ其樣にお悔み成さる事は有りません、今に又慰めて呉れる人も出來、從ツて又樂い事も出て來ますよ。」
 那稻は漸くに涙を納め、僞奴も亦此忠告には暗に己れの肩を持つ者と思ひしか、
「本統に其通りです」と賛成したり、左れど那稻は僞奴ほど淺果あさはかには喜ばず、寧ろ恨めしげなる調子にて、
「本統に爾ですよ、ハイ悲む丈け無駄だとは諦めましても、誰も私しを慰めて呉れませぬもの、貴方さへも私しの住居すまひに來て下さらぬでは有ませんか」と怨ずる如くに余の顏を眺め上ぐる其眼の内にも外にも云ふに云はれぬ趣きあり、貴方さへもの「さへも」の語に深き心をこめて有るとは盲目めくらでも明かなる可し。
 盲目にあらぬ僞奴の眼は早くも夫と見、既に氣の揉める緒口いとぐちを開きしか、少し嘲笑ふ如き氣味にて、
「夫人、貴方は此伯爵が全くの女嫌ひで、美人と云ふ文字を眺めても身振みぶるひする程だと云ふ事を未だ御存じ無いのです、ネエ伯爵」と余に迄も念を推すは、暗に豫防の襯染したぞめを爲す者ならん其心の深さ淺さ大抵是だけにて分るに非ずや、去れど余も亦茲に至りては僞奴が思はぬ程の曲者なり、いと輕き口調にて、
「爾です通例の美人には殆ど身震ひも致しますが、天女とも見擬はるゝ眞の美人の笑顏には何うして敵たふ事が出來ませう」と云ひ、目鏡を隔てゝ那稻の顏を見返すに、那稻は初て其悲げなる樣子を掻消し、又一入晴々しく其眼を張開きたり、是れ問ふまでも無く既に余を惱殺し、奴隷の如くならしめんとの心にして、即ち妖婦たる眞の性根を現はさんとする者ならん。是れが其の手初めか、既に綿より柔らかな手の先をば卓子の上なる余の手に載せ、
「オヤ私しが其天女ですか、天女の言葉にはそむかぬ者です。」
「イヤ何うして負きませう。」
「では、明日みやうにち私しの許をおひ下さるとおつしやるのですネ、夫では魏!」
 魏堂を呼捨にする口癖を思はず、洩さんとし周章あわたゞしく言直し、
「夫では花里さん、貴方がお供をして下さいよ」僞奴を供とし、余を賓客とす、固より當然の場合なれど、其の言樣に何と無く區別あり、余と僞奴との間に充分輕重の隔てを附けし如くなれば、僞奴は愈々氣色を損ぜし如く又も嘲りの笑を浮め、
「アヽ私しから幾等爾申しても決して貴方の許を尋ねやうといはなんだ伯爵が、貴女の一ごんに早や心をひるがへしたのは何よりも結構です。」
 アヽ心を飜へすとは大仰なり、今少し言樣も有る可きに、彼れは殊更に斯く耳障りなる言葉を使へり、去れど那稻は其上にいでて余の肩を持たんとし、
「夫れは貴方、花里さんの言葉と私しの言葉を一樣にお聞なされます者か、ネエ伯爵」と唯一ごんの言廻しにて僞奴の人品を殆ど足の下に蹴落したり、彼何所までも僞奴をからかひていぢめんとする者と見ゆ、爾は云へ余も其言葉に調子を合せ「夫は爾です、貴方のお顏を見れば鬼でも心がやはらぎます」と答へたり。


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