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 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        三一

 那稻と顏を合せて立ち、余は唯だアツと逆上のぼせたり、太陽を見てまばゆからぬ程の黒目鏡も那稻の顏には敵する能はず、眼の眩むは愚な事、氣も魂も轉倒し、宛もかうべを釣鐘の中に入れ、外より不意に撞鳴つきならされしかと云ふ如き氣持にて暫しが程は我か人かの區別も附かず、アヽ讀者、那稻は如何にして斯く迄も美しきや、眞の美人は見れば見るだけ愈々愛らしく、見る度毎に深く美しさのまさり行くと聞きたるが、那稻は實に其たぐひなり、彼の美しき事は豫て知れり、(勿論余が妻なれば)去れど百日見ざりし余が目には殆ど初めて見し美人の如く見ゆ、覆面と共に背後に投げたる金髮は櫻色の顏を露出むきいだし、之に黒き喪服の能く似合ひたる具合は何とも云へた者で無し、女を嫌ひし余波漂が、昔し一目でうつゝを拔したるも道理、今は其時より確に又幾倍か立優りて世界に又と無き若後家なり、は云へ余が取上とりのぼせたるは唯だ彼の美しきのみに非ず、欺かれし過去の場合、一時に余が心に迫り來り、余は何としてよきかを知らず、余が戸惑ひて有る間、那稻は閾の上に立ち、俄には進み來らず愛らしき中の最も愛らしき笑を浮めながら、又恭々しげに余を眺め、自ら手を延べて進み行くを待つ樣なりしも余は進む能はず、退しりぞきも動きもせざれば彼少しはじらひて歩み出で、間違へば何うしやうと氣遣ふ如き、覺束おぼつかなき言葉にて、
「貴方が笹田……伯爵……ですか」と問へり。
 余は必死の思ひにて返事せんと揉掻もがけども舌剛したこわば咽乾のどかはきて聲は胸の中にて塞がり、我れながら我が不體裁が面目なし、まごつく樣を隱す爲め漸く首を垂るゝに、先は之を見て「ハイ」と云ふ返事と見做みなせしか、嬉しげに又一足進來すすみきたれり。
 余は實に我が腑甲斐無ふがひなさに愛想が盡きたり、那稻は自ら類稀たぐひまれなる美人たるを知り、如何なる男と我が目の前には平服へいふくすると知りて、人を見るを埃芥ごみあくたの如く、其はぢらふ樣も覺束なき口のさまも總て我が愛らしさを深くする手段にして、腹の中には何とも思はぬ事、余は能く知れり、知りながらも之に敵する能はずして戸惑ふとは何の事ぞ、併し先づ/\垂れし首が返事となり、別に言葉を發せずして事の足りしは重疊の仕合せなりと漸く安心するに從ひ、塞がりし咽の忽ち開き今までつかえ居たる「ハイ」の一聲、我知らずいと高らかに口よりいでたるきまりの惡さ、出す時に出ず、出さぬ時に出る、氣がのぼせれば物事が斯も不手際に行く者か。
 那稻の背後うしろに控へたる僞奴も、成る程伯爵は女の前に出た事の無い人と見て取て、笑ひしならん、余が目には彼れの姿は見えず、殆ど一切の物が總て見えず、那稻も或は可笑しさに堪ざりしやも知れねど、彼は更に其色を見せず、唯だ嬉しげに頬笑みて、
「アヽ左樣ですか、私しは羅馬内伯爵夫人ですが、實は今日こんにち貴方が[#「貴方が」は底本では「貴女が」]畫室アトリエにおいでになると聞き少しも早くお目に掛り、直々ぢき/\にお禮を申さねば濟まぬと思ひまして、イエ最うアレ程の立派な品は拜見するさへ初てゞす」と云ひつゝ細き手を延べ余に握らせんとす、余は茲に至りて我心の餘りに弱く我身の餘りに活智無いくぢなさが腹立しく、エヽ悔しいと云ふ了見にて無作法に其手を取り、碎くる程に握り締たり、定めし指環が左右の肉に深く食入くひいり痛き事ならんと察せらるれど、流石に痛しとは口にいださず、余は是にて漸く度胸が定まり人心地附きたれば、最早や詰らぬ失策にて事を過ちてはならずと、心を丹田の底に沈め、豫て勉強せし聲音にて、
「イヤ夫人、爾までお禮を仰有られては痛みいります、殊に御不幸の後間も無い所へ、アノ樣な飾物など贈りますのは餘りに場合を知らぬ仕打しうちで、定めし情無しと思召しませうが、イヤ最う貴女の御不幸を察せぬでは有ません、何うか悲しみのわかてる者なら幾分かわたくしの身に分ちて、貴女のお心を輕く仕度いと思ひますが、若し波漂殿が生て居れば、今頃は同人の手から貴女に渡されて居るだらうと思ひますから、夫で花里氏へも爾云てお送り申たのです、悲き場合に不似合な贈物とお叱りを受ませぬのは、却て私しからお禮を申さねばなりませぬ。」
 聲は作りし聲なれど言葉は是れ一句/\總て交際社會の撰拔えりぬきなれば、僞奴若し茲に有りて之を聞かば、余が貴夫人の前にて口きく事さへ知らぬと云ひし其言葉の違ふを怪み殆ど目をまるくして呆れしやも知る可からず、去れど彼は茶菓子など運ばん爲め下去くだりさりて茲には非ず、那稻も幾分かは余が言方の初の不調法サに似ぬを怪みてか、夫とも外に疑ふ所でも有るか、余が言葉の中程を過し頃より少し顏の色を青くし、殆ど氣味惡いとも云ふ可き程の樣子にて余の目鏡を見る、余は益々大膽を増し來り少しも臆せず那稻の顏を見返すに、那稻は握られし手を徐ろ/\と引きたれば余は更にソフアーを取り與ふるに、那稻は最と平然と宛も朝廷より退きて私室にりたる女皇の如く之にもたれ、猶ほ何事をか考へながら余の顏を眺むるのみ、斯る所へ僞奴は來り、滿足の樣子に打笑ひ、
「何うです伯爵、到頭計略に罹りましたネ、貴方の隨意にまかせて置けば何時まで貴方が夫人の許へ尋ねて行ぬかも知ませんから、私しと夫人と相談して、今日こんにちは貴方の意外に此面會を仕組だのです」と云ふ、知らず讀者よ、是より奸夫姦婦と欺かれたる其所天と三人の交際は如何なる方角に進み行く可き。


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