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 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        三〇

 余さへも驚く程なれば、僞奴ぎど猶更なほさら驚きたり。
「エ伯爵、貴方は何うして是ほどの寶を集めました、この光珠だいやもんどは、此の紅石ルビーは、此の緑珠エメラルドは、此の碧玉サフイヤは」と口續くちつゞけに嘆賞たんしようせり。實に是等の珠玉は金に飽せて求むるとも其おほいさ其輝き方、類稀たぐひまれなる者にして容易には求む可からず、余は惜氣をしげも無く、
「イヤ私しが波漂の父に受た恩は、仲々是位で未返まだかへされません。」
「イヤ何の樣な恩か知ませんが、是で返し盡されぬ恩と云ふは有ません、是ほど立派な玉の類は帝王の冠物かんむりにも多くは着て居ませんぜ。」
「爾云はるれば私しも滿足です、何うか貴方の盡力で之を夫人へ納めて頂き度い者ですが。」
「夫はわたくしの最もよろこぶ盡力ですが、夫にしても貴方は夫人の許をおとひなさいな、夫人も是ほどの物を頂けば、直々お目に掛ツてお禮を云はずには居られません。」
 余は殆ど落膽の顏にて、
「では致し方が有ません、夫人の許を訪ねると致しませう、が然し、今日はいけませんよ、今は未だ旅の空も同じことで、夫々の荷物調度なども取寄せませず、居間の飾附さへ終らぬ程ですから、兔に角幾等か身を落附け、是で愈々交際社會へ出られると云ふ樣に成て、其上でお目に掛りませう。」
「夫は何時の事です。」
「ナニ茲三日か四日です、遲くも今日より五日目には伺ひますから、其前觸まへぶれと云ふも大變だが、先づ前觸兼土産物の樣な積で是を貴方が持て行て屆けて下さい」と云ひ、箱に葢して鍵まで添へて差出さしいだすに、魏堂はおもてだけ當惑氣な色をよそほへど夫人が之を貰ふは即ち自分の未來の妻が貰ふ者にて、六月の後は我物と成る道理なれば殆ど嬉しさを包み得ず、
「伯爵、貴方は本統に交際社會の帝王です。帝王の言葉に背くとは恐れ多い次第ですから、宜しい私しが特命全權公使と云ふ積で、女皇ぢよわうの許に屆けませう。」とて其箱を抱上だきあげたり。
 余は波漂たりし頃、僞奴が斯く金持に媚諂こびへつらふ卑屈の性質を隱せりとは見破り得ず、まづしけれども一廉の氣象ある男と思ひ得たるに今は彼れの卑劣、卑陋ひらうなる本性を露出むきだしに見るを得たり。去れど勿論余は其色を見せず最と笑ましげに、
「では花里さん、私しは是から種々用事も有ますから後刻貴方の畫室アトリエでお目に掛りませう。」
「ハイ夫では取敢とりあへず之を夫人に送り屆け、夫から宅へ歸ツてお待受けしますから」と是だけの言葉を殘し、僞奴は踏む足も定まらぬほど歡びて立去れり。
 是より午後の三時まで別に記す程の事も無し、唯だ余が昨日此家の主人に向ひ、最も謹直なる從者一にん雇度やとひたしと頼みおきしに、適當の男ありしとて年廿七八なる瓶藏かめざうと云へる男を連來れり。余は之を試し見るに充分從者のつとめに慣れ、且つ思ひしよりも謹直の男と見たれば、直ちに雇入れの約束を爲し、猶ほ是よりして余が追々交際社會に乘出のりいづる用意にと此土地の紳士達へ通手つてに應じて手紙或は土産物、或は我が名札などを配らせしが、此事の終る頃、丁度魏堂の家を訪ふ可き刻限と爲りたれば、余は衣服も一際立派に着飾り、目鏡の曇りを能く拭ひて出行きたり。
 僞奴の家も岡の小高き所に在り、余はやみにも迷はぬ程能く道を知れど是も體裁なれば片手に僞奴より貰ひたる名札を持ち其番地を讀みながら尋ね行きて、幾度も鳴したる案内の鈴を引鳴すに、僞奴自ら出迎いでむかへ、直ちに二階の繪畫室へと招じたり、見れば彼れ余が死してより最早や繪を書きて賣るに及ばぬ身と爲しと見え、余が生前に畫き掛け有りし額面も其後一筆を加へたる後を見ず、尤も余を迎へんが爲めにはかに掃除を施したりとは見ゆれど、孰れの繪も皆余が生前買殘したる者のみにして新しき者とては一個も無し、室の中央なる卓子に挿したる花も余が家の庭より折來りし者なり、余は立ちて四方の額を眺めながら、
「花里さん、斯う美しい畫室の中へ坐して居る姿を見れば、貴方は職業も美術家だが、貴方の姿も一個の美術です」と褒むるに彼れ頬笑みて、
「伯爵、貴方も見掛に寄らぬお世辭家ですよ」と云ひ更に又「オヽ先刻の品物は早速伯爵夫人へ屆けましたが、夫は/\夫人の驚きと歡びは一通りで有ませんでした。」
 余は其話を好まぬ如く單に、
「夫は御苦勞でした」と答へ、再び畫の方に振向て、旨くも無き物を旨しと褒め、唯だ最も大くしてあたひの最も高相かうさうなる分を五六枚撰びて買ふに、魏堂は余を待遇もてなすの少しでも厚きを勉め、面白可笑しく樣々の話を持出もちいだすに、其の新しげなる洒落も總て余が一旦聞きたる洒落にて其の利口氣なる美術論の中には、余が曾て説聞せたる者も多し、彼れは實にを拔きたる卵子たまごの殼の如く上部のみ綺麗にして味も無く腹も無き、尤も俗なる人物なり、余は斯る淺墓の人物を何うして、親友と爲したるや、今は余自ら合點の行かぬ程なり。話す事半時間のあまりに及びて彼は己が心のいやしさを悉く打明盡し、余と隔て無き昵懇の間柄らしくなれり。
 斯る折しも誰なるか馬車に乘りて此家に來り入口に車を留めし音、手に取る如く聞えたれば、余はきつと魏堂の顏を見、
「オヤ誰か來る約束でも有ましたか。」と云ふ。
 彼れや當惑氣なる笑を浮べ、
「イエ、爾でも、アヽ何うでしたか」と曖昧なる返事の終らぬうち、早や案内を請ふ鈴の音聞ゆ、魏堂は余に挨拶もせず玄關さしてくだり去れり、アヽ讀者、蟲が知すと云ふ者か余は殆ど其來客の誰なるやを知れり、讀者も必ずすゐし得ん、余は俄に高く打つ我が動悸を制し、強敵を待つ勇士の如く立上りて足を踏〆ふみしめ、黒目鏡をしかと目に當て、かつ靜に且騷ぎて控ゆるに、頓て僞奴の足音の後に從ふ猶ほ輕き足音も聞え戸の外にて僞奴が何やらん細語く聲も聞え、絹服の音も聞ゆ、余が胸は張裂くばかり、何思ふ暇も無く僞奴は宛も女皇を迎へ入れる程の謙遜にて戸を開けり、しきいにソツと立現はれ余と顏と顏見合せたる來客は、讀者讀者、余が妻の那稻なり、余は那稻と正面に出會いであひたり。


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