白髮鬼
黒岩涙香
二八
アヽ魏堂、今より六月の後に婚姻すると云ひ早や事定りし如く思へど、其六月の間には、如何ほど恐しき大珍事の起るやも知る可からず、珍味佳肴も皿より口に入る間に、箸を脱して辷り落る過ちの有るを知らずや、彼れが樂む六ヶ月は余が復讐の熟する期なり。
彼れ殆ど鼻唄を謠はぬばかりに打興じたる面持なれど、其身の邊に己れを詛ふ白髮鬼の附纒へるを知らば、斯まで氣輕く心浮ぶを得んや、余は斯思ひて、窃に彼れの顏を見るに、彼れ見らるゝと悟りてか余に振向き、
「ですが伯爵、貴方は諸國を旅行した丈け定しめ[#「定しめ」底本ママ]美人を澤山御覽なさツたでせう。」
余は極めて餘所/\しく、
「エ美人、ナアニ美人でも愛情でも金さへ有れば買取れる一種の商品だと思ひますから、私しは唯だ金を稼ぐ一方で美人などに振向く暇は無ツたのです、美人を美人と思はねば、美人と醜婦の鑑定さへ私しには附兼ますよ。」
魏堂は笑ひて、
「アヽ丁度波漂も其通り美人には冷淡でしたよ、尤も貴方は充分の經驗を經た上の事、波漂は經驗も何も無く、自分の愚さで爾思ツて居たのですから、美人を見ると直に其意見が變り、氣狂の樣に成て婚禮しました。」
「では餘程の美人と見えますネ。」
「ハイ美人と醜婦の鑑定が六かしと仰有る貴方でも、一目見れば成る程世界中の女は皆醜婦だと思ひます。勿論貴方は夫人にお逢ひ成さるでせう。」
「波漂の後家にですか。」
「左樣。」
「イエ/\、夫ばかりは御免蒙ります、御覽の通り朴訥き老人が女の前では旨く口をきく事も出來ず、況てや所天を失ツて泣てばかり居る女は大嫌ひです。」
大嫌ひと聞きては益々逢せ度る事必定なり、彼は少し小聲にて、
「所がネ、爾う泣悲んでは居ませんよ、是非私しが紹介しませう。」
奸夫が眞の所天に向ひ、其妻に紹介せんとは古往今來有ツた例しか、此時宛も余が宿の入口まで歩み來たれば、魏堂が立留るを余は控へつ、
「爾ですか、泣悲しんでは居ませんか。」
「眞の美人は爾う愚痴ツぽい者では有ません、夫に悲むほど波漂を愛して居たので無く、寧ろ厭がツて居ましたもの。」余は宿の石段を登り乍ら、
「サア、立寄て暫く話てお出なさい、幸ひ自慢の葡萄酒も有りますから一瓶口を開きませう、ハア爾ですか寧ろ嫌ツて居たのですか。」
魏堂は余に引れて内に入り共に廊下を歩みながら、
「餘ぽどの才子で無ければ、アノ樣な美人には愛せられませんよ」と暗に餘ぽどの才子を以て自ら居る、誠にお坐の冷果た次第ならずや。
頓て室に達し、余は戸を開きて請ずるに、彼れ畫を批評する如き目にて、先づ室の飾附けを見廻せり、余は獨言の如く、
「才子で無ければ愛せられませんかなア、私しは又金さへ有れば愚人でも愛せられるかと思ひましたが」と答へながらに立廻りて葡萄酒を拔來たるに、魏堂は余の後影を等分に眺め居たるが、やがて一口呑み、
「伯爵、貴方は本統に皇族の贅澤です、室と云ひ、飮食物と云ひ」
「イヤ私しの今までの苦勞と身代に比べては、未だ是だけの贅澤では足りません。」
貴方と那稻の命まで貰はねばとの心を暗に籠めて云ふに、彼れ悟らう由も無ければ、何の故にや、少し不安心の樣子にて眉の間に曇を現し、
「伯爵、他人の空肖と云ふ者か、貴方の立廻る後影は何うも波漂と生冩しですよ。」
余は驚かぬに非ず、去れど確に落着て、
「イヤ背の高い人同志は大抵後影が肖た者ですよ、併し貴方の親友に似て居れば私しも滿足です」と紛らせど、彼れ猶ほ解け兼る如く余の顏を眺むるにぞ、余は茲ぞと、少しも怯まず彼れを見返し、
「顏まで肖て居ますか、ハヽア私しと似た顏では波漂が妻に嫌はれたも無理は無い」と戯れたり。勿論肖し所ある可きなれど、波漂の時には淨く剃附け居たる腮にも頬にも、今は一面の髭髯を生し、而も其髭髯雪の如く白くして唯だ顏中の商標たる眼は濃き目鏡に隱したれば夫と疑ふ筈はなし、殊に余が大膽な振舞は全く彼れを眩し得たり、彼れ初めて打解けつゝ是より酒の盡るまで笑ひ興じて話せしが、九時半を打つ時計の音に驚きて、イザ去らんと立上り、
「では又お目に掛りますが、兔に角貴方の事を伯爵夫人(即ち余が妻)へ話ても好でせう、夫人は必ず喜んでお目に掛りますよ。」
余は夏蠅しと云ふ顏を見せ、
「イヤ私しは女の詰らぬ話など聞くのは好みません、何所の婦人も宛で小兒の云ふ樣な取留の無い事ばかり話ますから、私しなどは殆ど返答にも困ります」と云ひ掛て少し考へ「ですが、アヽ爾だ、貴方に願ツて言傳を仕て頂きませうか。」
「イヤ最う貴方のお言傳なら何なりと」
「夫でも貴方は何時夫人にお逢成さるか分りますまい。」
魏堂は少し顏紅めながらも、畜生め、
「イヤ實は、今夜是から夫人の許まで行く用事が有ますから」と言切りたり。
讀者よ、余が言傳と云ふ、固より今思ひ附し事に非ず、是も兼て定め置きし余が計略の一なれば、余は其計略に相當する心廣き口調にて、
「實はネ、昔し私しが當地を出立する頃、波漂の父に旅費までも厄介を掛たのです、恩も怨も充分に酬ゆる迄は忘れぬが私しの氣質ですから(とて殊更に怨を聞かせ)何うか世界に類の無い報い方を仕度いと思ひ、自分で褒るのも異な者ですが、二十年の間油斷なく目を配り、最上の珠玉寶石類を集めました、金では價が積れぬ程の品物ですが、遺憾な事には其恩ある父は死に、波漂の代と爲たのを聞きましたから、切ては波漂に贈り度いと思ひ故々持て來ました所、波漂も既に冥府の人、私しの恩返しは既に相手が無くなりました、けれども又考へるに波漂が生て居るならば勿論飾り物の事ですから、其妻伯爵夫人の物に成ませう、而見れば波漂が死だとても矢張り夫人へ送るのが順序かと思ひますから、夫人が受納めて下さるか下さらぬか、貴方から穩かに夫人の意見を伺ツては下されませんか。」
勿論牡丹餅で頬片てふ東洋の諺より猶ほ難有き次第なれば、問ふにや及ぶと云ふ所なれど之を問ふが紳士の虚禮、魏堂は一句一句に頬を崩し、
「イヤ其樣なお使ひなら何度でも言附り度い者です、殊に夫人は珠石が其姿に似合ますから、何れほど歡ぶか知れません、併し折角のお言傳ゆゑ、充分貴方の本意が通ずる樣に尋ねて見ませう。」
斯く答へながら彼れ夫人を喜すの一刻も早きを欲する如く、尻をモヂ/\と落附かねば、余は思遣り能く、
「では花里さん、明日にも其お返事をお聞かせ下さい」とは「是れ/\サア之を機にお歸り成さい」の謎も同樣、彼れホク/\と轉がりて辭し去れり。