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 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        二〇

 海賊を詮索する警察官の來りしを見て余は痛く驚きたれど、羅浦丸の船長は少しも恐るゝ樣子なくたくみに警官の疑ひを言開き、決して輕目郎、練を送りたる覺無おぼえなしと言ひ、果は立腹の色さへ見せて「正直に商賣する羅浦丸へ、其樣な汚名を附けては此後の營業に障ります」とて警官を叱り附けたり。其樣子の誠しやかなるには、余さへも先刻彼れが輕目郎を送りしと言たる其言葉が僞りなりしかと却て疑ふ程なれば、警察官は充分に滿足し「イヤ無根の噂を誠と思ひ、正直な船長に疑ひを掛けたは、此方の疏※そさう[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]で有ツた」と詫の如き言葉を殘し、其儘船より立去りたり。
 船長は警察官が全く陸に上りたるを見濟し、笑ひながら余に向ひ。
「何うです、警官を欺くのは旨い者でせう、併し斯う云ふ場合に嘘はつきますが、決して不正直な男では有ませんよ」と言譯せり、余もうなづきて。
「爾とも、人を助ける爲の嘘は、誠を云ふて人を殺すより功徳になる」と其行ひをしやうしながら先に拂ひし船賃の外、猶ほ幾何いくばくの金をいだし、是は昨日來の親切を謝する爲なりと云ひて渡すに、船長は殊の外喜びて、
「イヤ貴方の御用は此後何なりとも勤めます。ついては貴方のお名前を伺つて置き度い者です」と云ひ先づ自分の名札一葉を取出とりいだして、余に渡せり、余は其おもてを見るに「羅浦丸船長羅浦五郎」と記せり、余は更に我名を答へ「オヽわしは伯爵笹田折葉さゝだをりはと云ふ者だ」と名乘りたり。
 余は勿論姿をかへて復讐に取掛る積なれば、波漂羅馬内の本名は用ひられず、如何なる僞名にす可きやと昨夜來考へしが、昔し余の母方の伯父に笹田折葉と云ふ貧窮貴族あり、此人唯だ伯爵の肩書あるのみにて家も無ければ妻も迎へず、わづかに博奕の所得にて身を支ふるのみなりしが、余が八九歳の頃奮然として一身代作る氣に成り、印度いんどへ向て出發したり、其後幾年の後に及び、印度の海邊かいへんにて溺死せしとて其土地の領事館より余の許まで知らせ來たれど、固より外に縁類の無き人なれば其知せは余の外へは傳はらず、世間にては其安否を氣遣ふ者も無く、笹田折葉と云ふ名前は何人にも忘れられたり、余は此人の名前を其儘用ふるが無難なりと思ひ、既に昨夜より定め置きたるゆゑ船長の問に逢ふてもマゴ附かず、直ちに伯爵笹田とは答へしなり。
 是より船長に別れてパレルモへ上陸せしが、第一に土地の仕立屋に行き紳士の着る可き出來合の服を買ひ、猶ほ贅澤なる衣服幾襲いくかさねあつらへ置き、此土地第一等のホテルを撰びて投宿し、給仕などへも充分の金を與へて、此頃印度より歸りたる大金持の貴族と見せ掛け、翌日は土地の銀行へ行き頭取に逢ひて彼の大金を預けたり、頭取も初めは其金高の非常に多きを怪む如くなりしが余が然る可く印度の有樣などを語り、猶ほ携へ居る寶石の中、可なり立派なる物二個を取り之を引出ひきでにとて贈りたれば、其疑ひ全く晴し如く、此上の交際を願ふとて樣々に余を待遇もてなしたり。
 是よりして余の仕事は唯充分に姿を變へ、何人にも是が波漂の變身なりと見破られぬ稽古なり、勿論波漂は死したれば假令たとひ余が元の儘の姿なりとも波漂に非ずと言張る事かたからねど、余は我妻を欺き我親友を欺かねばならず、彼等の心に少しにても疑ひを起されては折角の計事はかりごとも破るゝの恐れあり、尤も此計事は實の所余が髮の白くなり、余が姿の變り果しより思ひ附きたる者には有れど、余は是だけの變り方にては安心出來ず、猶一層變らねばならず、今まで鼻の下に蓄え置し八字のひげも頭髮と共に白くなりたれば、此上にあごひげ、頬のひげを延しるに、孰れも白く延び來れり、然るに獨り恨めしきは余の顏なり、墓を出たる其當座痛く肉落ち頬骨出で、眼も深く落入りて見えたるに、一日ひとひ/\經るに從ひ病後の人の肥立ひだつ如く、頬も肉附けば眼もせり上げ、何うやら元の波漂らしく見ゆるに至りし事なり。
 是も白髮と髯との爲め幾分か紛るゝとは云へ眼ばかりは詮方なし、太くして而も愛嬌あり、眸子ひとみ甚だ黒くして且つあきらかなるは余が先祖より代々傳はりたる眼にして、余の父も斯の如く、余も亦斯の如し、父と子に多少の違ひは有れど那稻や魏堂の目より見れば余の眼は依然たる余が眼なり、之を充分に隱さずばつひには彼等に疑はるゝ事と爲らんも知れず、扨如何にして此眼を隱すべきや別に六しき事は無し、印度の暑き日に照されて眼病に罹り、日の光を見るに堪へずと云ひ、色の濃き黒目鏡くろめがねを掛くれば足れり、斯く思ひて余は充分に目をふ太き黒目鏡を作らせ、之を掛けて鏡に向ふに、是ならば充分なり、顏の色は血氣壯けつきさかんの男子なれども髮と髯は七十以上の老人なり、其中を取り五十五歳か六歳ぐらゐには誰も見て、若々しき老爺ぢいさんと思ふならん、夫だけに見らるれば我より波漂なりと名乘るも、目鏡を外さぬ上は誰も誠とする者なし、好し/\と余は全く黒目鏡に滿足し、且つは變りたる我姿に滿足せり。


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