白髮鬼
黒岩涙香
一八
船は間も無く港を出たり、幸ひ波平かにして風も亦順なりしかば其行くこと矢よりも早く、餘りの無事に船長も徒然に苦むと見え、日の暮る頃に及び卷煙草の箱を手に持ち余の傍に進み來り。
「旦那、一本差上ませう」と云ふ、余は水夫の荒々しき言葉にて、
「旦那などと云はれては氣が詰るよ、ヱ船長、お前だツて同じ水の中の職人じや無いか、朋輩とか兄弟とか氣が詰らぬ樣に呼で呉んな」と飽くまで水夫を氣取りで言ふに、彼れ猶ほ恭しき身構にて、
「旦那、御笑談仰有ちや了ません、餓鬼の頃から船乘をして居るだけに、本統の珊瑚漁師と、姿を變た紳士との見分は附きます。」
扨は、余の忍び姿には猶ほ黒人を欺き得ぬ所あるにや、余は悸と驚きたれども殆ど言紛らせる言葉を知らず、空しく彼れの顏を見るのみなるに、彼れ面白げなる笑を浮め、
「第一貴方のお手を見れば漁師で無い事が分ります、漁師の手に是ほど白く綺麗なのは有ません」と云ひ靜かに余の手を取上げたり。
余は拂ひも得せず我手を見るに、成るほど漁師の手に非ず、昨日は病後の衰へにて痛く萎びて見えたるに、今日は早や夫さへも幾等か復りて殆ど元の波漂の手に近からんとす、彼れは猶ほ言葉を繼ぎ、
「第一貴方が此船に乘る時から、私しは本統の水夫で無いと思ひました、珊瑚漁など云ふ者は、隨分金になる仕事でも、其漁師は皆貧乏です、漁に行く爲め港を出る時には、誰の船へでも無代で乘込み、歸りに船賃だけの枝珊瑚を呉れるのです、貴方の樣に船長何うか載て呉れなどと丁寧に頼み、私しが斷れば莫大の船賃を下さるなど、其樣な珊瑚漁師が何處の世界に有ませう」余は如何とも言開く事能はず、顏を赤らめてモヂ/\するに彼れ氣の毒と思ひしか「イヤナニ船長をして居れば、忍びの紳士貴婦人などをお送り申す事は度々あります、有ても是が商賣の帆待ですから、決して根問は致しません、貴方の御身分は知りませんが、漁師の着物をお着なさるには必ず夫だけの御都合が有るのでせうから、私しは知らぬ顏で又此次の御用を願ふのです、其代り此後若し貴方が再び忍びの旅行を成され度いときは、羅浦丸の船長と云ひ、何時でも港でお問成されば直に私しが御用を伺ひます、ハイ私しはお名前も聞かずお出先も聞ず、宛で唖の樣に成てお送り申ます。後で警察からでも、其外の人からでも、若しや是々の忍の紳士を載なんだかと問はるれば少しも覺えが有ませんと、立派に言開いて上ますから」と云ふ其言葉附顏附に氣を留るも、更に惡意の有りげには見えず、全く親切一方の言葉なれば余は漸く安心して禮を述べつゝ、差出せる彼の煙草を受て燻らせるに、怪む可し此煙草、余が贅澤の第一として、曾てハバナより取寄せし別製最上と同じ品なり、勿論斯る荷船の船頭が持つ可き品に非ざれば、其の如何にして手に入しやを問ふに、彼れ宛も遙か放れし陸地の人に聞るゝを厭ふ如く、四邊を見廻し聲を低くし、
「旦那だから申ますが、是は海賊王輕目郎練から貰ツたのですよ、此廣い伊太利で此の煙草を取寄せる贅澤家は練か羅馬内家の波漂樣か、朝廷の上役か其外には無い相です。」
余は實に異樣なる想ひを爲したり、余が衣嚢よりカバンの中に滿々つる大金も、是れ輕目郎の物なるに、今又彼れの煙草を惠まる、余と彼れは如何なる前世の宿縁あるや、余は自ら顏色の變るかと思はるゝ程なるを強て紛らせ。
「爾だらう、巴里で何時だか人の馳走に成た外は、此樣な煙草を呑だ事が無い、シタガ輕目郎、練の呑む煙草は何うして、お前の手に入た。[#「」」欠字か]
「彼に貰たのです。」
「オヽお前は海賊王を知て居るのか。」
「ハイ地中海の船頭で練を知ぬ者は一人も有ません、誰でも練から多少の賄賂を受て居ます、夫だから彼は地中海を自由自在に逃廻り、警察が幾等嚴重にしても捕はれぬのです、何の船の船頭でも、練が密に載て呉れと云へば決して否とは云得ません。[#「」」欠字か]
「ホヽ練は夫ほど剛いのかなア。」
「世界第一と云ふ海賊ですから剛いには相違有りませんが、併し彼れも最う運の盡でせう、昨年既に自分の乘る船は政府に捕はれ、今は行く先々で警察が待て居る程ですから、斯う云ふ中にも最う捕はれて居るかも知れません。」
「だけれどアレ程の大賊だから警察などの氣の附ぬ何處かの島へ隱れて居るだらう。」
「イヤ爾で有ません、地中海の島々は殘らず其筋の手が廻り、陸より却て險呑ですから、彼れは今年の春以來、陸にばかり隱れて居ます、海賊が陸に上れば水を離れた魚の樣な者で、幾等躁ても逃れぬに極て居ます。」
「だがお前は大層練の事に詳しいでは無いか。」
「と云ふ程でも有ませんが、實はネ、丁度先々月の今頃でした、私しがゲータの港に船を留て居ますと、夜の二時頃、髯だらけの、恐ろしげなる男が來て己をテルミニ港まで送れと云ひ莫大の賃金を差出ました、其男が即はちネリです、私しは直樣其言葉に從ひましたが、彼れは最うテルミニの外に逃る所が無いと云ひ、其妻照子と云ふ美人をも連て居ました。」
余は練の噂を聞取るの必要無けれど、何故か聞度さの堪難ければ、猶彼是と根を掘りて、
「ヱ、練が美人を連て居るのか。」
「美人もアレ程美しい女は澤山は有ますまい、旦那方に見せ度と思ひますよ」余は寸刻も心に忘れぬ不義者那稻に引較べ「其樣な美人が能く練の樣な恐しい男に從ツて居るなア、宜しく練の目を掠め、手下の中の美男子とくツついて居るのぢや無いか。」と笑ひながら問試むるは、身の不幸より出來る一種の愚痴と云ふ可きか、船長は余の問に呆れし如き顏を爲し、
「其樣な事でもすれば練が殺して仕舞ひますよ、照子は不思議な貞女です。」
アヽ盜賊の群にも貞女あり、反て社會の上流たる貴族の家に不貞不操の妻あるか。