白髮鬼
黒岩涙香
一六
讀者讀者、余は追掛て不義もの兩個を捕へんと云ふ思案も浮ばず、彼等を家の内に隱るゝまで見送りて、フラ/\と茂の中を立出たり。アヽ余は是れ何者ぞ、今は此世に用も無く、生甲斐も無き全くの邪魔物なり。喜びて出迎へ、轉び寄りて抱附くならんと思ひたる那稻と魏堂の邪魔物たるのみに有らで、實に我身にすら邪魔になる我身なり。生たりとて誰を妻、誰を友、何所を家、何を食物として何所に住ん、昨日までの友も妻も友に非ず妻に非ず、我家とても余が一旦死せしからは、余が兼て作り置きたる遺言書の旨意に依り、今は那稻の物、然り先祖傳來の一切の財貨と共に、此家も、此庭も、此泉水も皆那稻の物、魏堂と那稻に不義の樂みを貪らせる其資本と爲れり。之を余の手に奪ひ返し彼等の不義を妨げん爲には裁判所へ訴へ出で、余波漂が眞實死せしに非ずして生返りし事を證明し、法律の力に依り元の主人と爲ねばならず、譯も無き樣なれど、悲しや余には夫だけの證據なく證人なし。
余自ら大聲して余は波漂羅馬内なりと云ふも變り果たる此姿を誰が波漂なりと思はん、裁判所も採用せず、縱し採用されしとするも然らば證人にとて第一に呼出さるゝは那稻と魏堂なり彼等心に余の生返りしを認むるとするも三年以來余を欺き、余の名譽を殺し、猶ほ悔る事を知らぬ兇者なれば唯だ一言にて余を無き者にし、此身代を永久己れ等の不義の資手に爲さん爲め、此白髮鬼決して、波漂に非ず、羅馬内の財産を奪はんとする恐る可き惡人なりと言張りて、余を二度と此世に顏も出されぬ人とするは必定せり、アヽ余は今世に全く運も望みも盡きたる人、家も無く、食も無く、杖柱も命の綱も無し、有るは唯だ消すに消されぬ火の如き復讐の一念のみ。
此世の樂みと云ふ事總て絶ゆれば、見るもの聞くもの味も無く、趣も無く愛も情も無し。昨日まで雙び無き絶景と思ひたる此庭も、依然としてネープル灣を見瞰せど、見瞰すが何の景ぞ、樹老い、月冷え、風清く、水白き、之を景色と云ふ人は復讐の念無きが爲のみ、月呀るとも曇るとも、水白くとも黒くとも、復讐に益無れば、月も水も木も風も、余の心を察せざる最大無情の怪物のみ。余は唯だ復讐の念を友とし、復讐の念を命とす、此念の爲に生き、此念の爲めに動く、此念の外に景色も然らず、浮世も知らず、義理も人情も總て知らず、復讐を遂るの日は余が目的盡くるの日なり、死すも寂滅するも本望なり。其日までは死す可らず、去ればとて余は如何にして復讐せん、今朝聞きたる彼の仕立屋の老主人は妻を即座に刺殺し其刀を遺身と云ひて直に男の胸に葬りたりと云ふ。アヽ余は彼の老人より劣りしか、現在に姦夫姦婦が余を罵るを見もし聞もし、而も二人を殺す能はず、無事に彼方へ退かせ、空しく機會を取迯したり、否々余の復讐は唯だ姦夫姦婦を殺す如き、世間有觸たる仕方にて濟しむ可からず、魏堂と那稻は世間普通の不義に非ず、余の辱しめられたるは世間普通の辱しめられ方に非ず、目を拔るれば目を拔て仇を返し、手を一本切るれば手を一本切て仇を復し、命を取るれば命を取る、是が昔より勇士の復讐と云者にして、其仕方は總て先方の仕方に準ぜり。余が彼等に受たる苦痛は唯だ身命を殺さるゝ如き凡平の苦痛に非ず、彼等を殺すは勿論として、殺したる其上に猶ほ莫大な苦みを與へ、彼等を絶望の底の底に落し入れ、是が爲には景色を見るとも景色と思はず、望みも運も盡果又一寸又一分の逃道だにも無き迄に苦めざる可らず、斯までに仕遂ねば眞の復讐とは云れぬなり、命を奪ふより先心を苦めん、心を苦むるより先づ魂を苦めん、然り苦しめて苦めて、眞に苦め拔き死ぬるに至りて初めて止まん。讀者よ、伊太利人は執念深し、其中にも余は猶更ら執念深しと云はれん、笑はゞ笑へ余と同じ辱めを受けて、余と同じ執念に落ざる者は人に非ず、否人にして眞の愛情無き者なり、無情なり、余は無情の人に見せんとて此記事を書く者に非ず、余の心を察する丈の情無き讀者は、此後を讀む勿れ、余が復讐の其念と其味とは、唯だ余と同じ心ある人にして初めて察す可ければなり。
余は實に非常なる復讐を企まんとす、踏込で彼等を殺すは難からねど、今は殺さず、世間より人殺の罪を犯せりと云れては、余が家の名にも係る。流石に羅馬内家の一男子、能も斯まで深く企み斯までも辛棒して斯までも氣味餘く復讐を遂げしよと、多き讀者の中唯一人余の心を汲みて呉るゝ人あらば、余は死すとも怨みなし、余は非常なる辱めの爲め非常なる復讐を企むなり、企むが無理か讀者。
余は夜の更けるまで庭の木影を徘徊し、彼か是かと考ふれど然る可き工風なし。神若し無慈悲なる復讐を憎むとならば、余は神を捨て惡魔を祈らん、惡魔、惡魔、汝の最も慘酷なる心を以て、汝の尤も非道なる智慧を振ひ、世の善人も惡人も聞きて悉く戰慄する、尤も恐しき復讐法を余に教へよ、余は其復讐をだに遂しめなば、最早此世に望みなし、身を以て汝の恩に報ぜん、汝余を殺せ、余が肉を張裂きて貪り食へ、永久余を魔道に落し、浮む瀬の無き餓鬼として余を酷き使へ、余は復讐の後の事は何うなるとも厭はぬなり。
讀者、余は實に斯の如き事を呟きながら考へ居たるに、漸く一思案浮びたり。最と六かしき工風なれど、是ならば魏堂と那稻に余の怨を晴すに足る、如何ほど六かしくも、復讐の外に目的の無き身を以て果すこと能はざらんや、之が爲には火も踏まん、水も潜らん、再び生埋にせらるゝ程の苦痛も侵さん、如何なる苦痛なればとて、復讐せずに堪忍ぶ其苦痛より辛き筈なければなり。余は此心の弛まざる爲にと思ひ、那稻の胸より落散りたる彼の薔薇の花を拾ひ上げ、大事に衣嚢の中に納めつ、又忍やかに此所を立去りたり。