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 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        一三

 アヽ魏堂と那稻、余が今までも無二の友、無二の妻よと思込みしに引替て彼等二人は無二の兇物しれもの、無二の敵なり、友たり所天たる余波漂が死して未だ二日と經たぬに、共々に人生第一の不義を盡し、余の名譽を殺し、余の心を殺しつゝ有るなり。彼等の一舉一動はことごとつるぎを以て余の胸を刺貫くに似たり。彼等が坐したる腰掛けは余の隱るゝ茂りの中より三あしとは離れず、直に余が目の前とは云ふ程なり。彼等が顏の一筋を動かすも有々と余の目に見え、彼等が忍ぶ呼吸いきの音も明かに余の耳に聞ゆ、然り百雷の如くに聞ゆ。
 横樣に那稻をいだく魏堂の左の手は、腰掛けて後も猶ほ那稻の腰の邊りをめぐ、那稻の顏は魏堂の胸の間に推附けて余のかたには頭の後部うしろを向けたり、背後うしろに垂るゝ黄金こがねの髮の毛、夕風にそよぎ掛るを魏堂は左の手の指先にもてあそびて餘念も無し。而も、那稻の右の手はゆるく魏堂の首に掛れり。
 彼れも是れも愛に溺れ情に餘りて離れがたなき有樣は畫にも描れず、所天たる余の身として目の前に斯の如き樣を見る、讀者余の心を如何いかがと思ふや、余は實に怒の塊りと爲り、身體しんたい堅くなりて動く能はず、唯だ目のみ光せて猶ほ見て有るに、暫くにして二人は今まで人目にかれて話し得ざりし互の愛を口にいだし、行ひに現し、散々にあぢははん心なるにや、那稻の手徐々しづ/\と殘りをしげに魏堂の首を離れ、那稻正面に余がかたに向へり。那稻が白き夏服は其優しき姿に能く似合ふこと云ふばかり無く、全身に一點の汚を見ず、穢れたる其心と何と莫大の相違ならずや、唯だ胸の所に赤き血の色を見るは是れ血に非ず魏堂の胸に在る花と一對の彼の薔薇の花なり、月に映じて襟に光るは余が與へたる夜光珠なり。
 讀者讀者、彼の夜光珠あるあたりへ恨の短劍を叩き込み、彼の花を挿す胸のへんまで花より紅き血を流しなば如何ほどか余の恨みは晴れん、否々余の恨はさる淺墓のむくいにて晴る如き淺き者には非ず、晴ずとは云へめて夫だけの酬でもと余は火よりも熱き手にてわが衣嚢かくしを探るに、悲しや一寸の刃物も無し。家に歸りて刃物が要るぞとは余が毛筋ほども爪のかけほども思寄らざりし所なればなり。
 怒る余が茲に在りとは知る由なく、那稻の顏はと安心げ、いと嬉しげ、なかく最と美し。昨日余の死せしを聞きてより一滴の涙をもこぼさず、顏に心配の一筋をも寄せざりしは一目にて明かなり、顏の何所の所、目許の何の邊にも悲しげ心配げなる痕は少しも無し、拭ひても斯くまで拭ひ去らるゝ者には非ず、殊に其口許に至りては、是れが彼の仕立屋の老主人が吾妻に似し惡魔の笑と云ひし其笑なるや知らねど、掬盡くみつくされぬ愛嬌有り、生れ立の赤ん坊にも斯まで清く罪の無き笑は浮ばず、成る程此笑の底の底には男を殺す魔力も有らん、誰とて此無邪氣なる口よりして僞りのイの字もいづると思はんや。
 やがてしも其細き口少しく開らき、人を醉せる音樂より猶爽やかなる聲を洩せり、低けれど而も清く、譬へば細き谷川下る清水の音とも云ふ可きか、アヽ那稻何を云ふ、余は首を縮め息をこらせり。
「オヽ魏堂よ、魏堂」是だけが先づ口切なり、何と親げなる呼方ならずや、讀者定し知るならんが西洋にては何の國にても年頃の男女なんによが互に呼逢ふには必ず樣附にして、其姓を[#「其姓を」は底本では「其性を」]呼ぶ、決して呼捨に名前ばかり呼ぶ者に非ず、唯天然の兄弟かきるに切られぬ極親しき友人か左なくば夫婦の間に限り、譬へば花里魏堂を呼ぶに花里君と姓を云はずして唯だ魏堂と名を呼べど、[#「研のつくり」、第3水準1-84-17]は既に魏堂に對し妻たるの約束出來たるを示すなり。那稻既に魏堂と呼ぶは、余を波漂々々と呼ぶに同じ、姓を云はずに其名を呼捨なり、聲に應じて魏堂が那稻の顏を見上るを待ち、那稻が何と後の句をつぐかと思へば、
「だがネ、魏堂、丁度好い時に波漂が死だから好ツたけれど。」
 讀者、讀者、妻は余の死せしを丁度好い時と云へり。
「若し死なければ何うなる所だツたらう」魏堂の返事こそ聞きものなれ、余は目と耳とを一時に張開くに、魏堂は輕く笑を浮べ、先づ、己が妻と確め置くつもりの如く「さうサ那稻」と呼捨て而る上に後を附けたり。昨日までは余の前にて奧樣奧樣と敬ひしが、今日は恐しき相違なり。彼れは輕き笑を嘲りの調子に變へ、「ナアニ彼奴(余の事を彼奴)が生て居たとて氣が附く者か、お前だツておれだツてアンな馬鹿者に悟られる樣なうつかりじやあ無い、夫に彼奴自惚うぬぼれが強いから仕合せさ、自分の妻は自分をばかり愛して居て、到底他人の盜める者で無いと一人で斯う極めて安心して居るのだから。」
 此語を聞て、清きは白山もんぶらんの雪の如く、高きは天上の星の如しと曾て魏堂が評したる余の妻那稻は笑みて又ひそみ、
「だけれど私しは波漂の死で呉れたのが嬉しいわ、でもネ、魏堂、お前當分の間、少し遠のかねばいけないよ、召使などが風評うはさして世間の口端くちはに掛かつては困るから、夫にわたしだツて世間體だもの、いやでも、六ヶ月の間は波漂の喪に服する眞似事をして居ねば。」
 とて猶何事をか言續けんとするに、魏堂は接吻きつすにて吸留め、
「シテ見るといつそ波漂の生て居た方が仕易かツたよ、彼奴は他人を追拂ふ二人の番人も同じ事でサ、お前と己と二人の間を自分も疑はず、爾して知ず/\他人に疑はせぬ役目を勤めて居たから。」
 余は餘りに彼れの言樣がにくサ、且つは顏に似合はぬ其心の恐しさに、思はずピクリ身を動かし、茂るの葉に音を立せり。那稻は聞きて、氣味惡げに立掛かり、不安心ふあんしんの樣子にて此方彼方を見廻さんとす。


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