白髮鬼
黒岩涙香
八
海賊王カルメロ、ネリ彼れの名は赤短劍の符牒と共に高し、彼れは十九世紀に並無き豪膽な海賊なり。
彼れ其の獲物を余が家代々の墓窖に隱し置くとは深くも考へし者なる哉。茲ならば警官に知れぬのみか何人にも見出さるゝ患無し、眞逆に伯爵波漂羅馬内が死して再び生返り、此大寢棺を發くならんとは、彼れの奸智も及ばざりし所ならん。察するに彼れ、死人を葬る樣に見せ掛け、總て葬式の儀式にて幾人の手下に此棺を舁がせ持來り、此所へ隱せしなる可し、是等の寶は總て世に謂ふ不正の富にして士君子の手を觸るだも厭ふ所なれど世界各國の海に出沒し、各國の船を劫かし、各國より奪集めたる者なれば今更ら其持主に復し得る者に非ず、彼れ海賊の手に在るよりも寧ろ余の手にて保監するが適當なり、好し好し此寶の此所に在る事を知り胸の中に疊み置きなば他日又何かの種に成らざらんや。
然り警察に訴ふるとも何かの種なり、他日、他日、他日まで疊み置かん、余は斯く考へながら忽ち又心附けり、他日とは生て何時までも永ふ可き人の云ふ事、墓窖の中に閉籠られ出る所も無き余の身に取り、他日と云ふ事有る可き筈なし、何かの種にせんと云ふ其の暇を得ぬうちに餓死るが余の運命ならん。
余は又も樣々の恐しき考へに身を惱し、悔さの餘り將に其寶を握み取りて手當次第に地上に擲たんとせしが、待暫し、彼の海賊王輕目郎練は何の所より此棺を此墓窖に入れたるや、墓窖の入口は余の家に有る鍵の外開き得る道無き者なり、左すれば此穴の孰れにか、彼れ海賊のみに知られたる祕密の出入口あるに相違なし初より爾る口を設けあるには有らねど彼れ如何にかして自分の爲め、他人には分らぬ樣其の口を作りたる者なる可し、爾すれば余は猶ほ失望するに及ばぬか。
余が斯く思ふ折しも、棚の上なる蝋燭は恰も風にて吹消す如くフツと消え、余の居る所は元の如き暗と爲れり、固より燐寸も有り蝋燭も猶ほ有る故、失望する事は無けれど、唯だ怪きは何の所より風の吹來て蝋燭を消したるぞ、孰れの所かに風の入る穴有るにや、余は先づ床の上を見るにアラ不思議壁に手を差入るほどの穴ありて之れより風の吹き來るのみならず、薄々と明も指せり、扨は、先程まで穴の外も夜半にして内と同じく眞暗なりしも今は夜も明し爲め明の差し、此穴の自から目に見ゆる事と爲りし者なる可し、此穴若しや何かの祕密には有らぬか。
余は先づ再び燈火を照し、更に我手を其穴に押入て探り試るに讀者よ、此穴は即ち輕目郎、練の作りたる出入口なり。穴の周圍なる幾個の石は余の手に從ひ動くに似たり、此石を取脱さば外に出らるゝ事疑ひ無しと余は其石を前へ引くに、思ひしよりも手答へ有りて仲々に取脱されず、更に向ふの方へ押せば少し動く樣に思はるれど、石と石との迫合にて一個を押せば傍の石に故障りて、益々押せば益々迫合ひ到底拔去る樣子なし、扨は此所を祕密の出入口と思ひしは全くの空頼みなりしか。
是と云ふも畢竟は推すに從ひて石の傾くが爲なるべし、傾かぬ樣眞ツ直に推拔かば、傍の石に故障らず、其儘拔る事も有らんか、手を入る程の穴あるは即ち其石の傾かぬ樣、手にて支ふる爲なるも知る可からずと、余は再び穴に手を入れ、其手にて石の傾くを制しながら推試むるに果せるかな、スル/\と外に拔け、續では其石の右と左に有る二個の石も容易に外す事を得て、後には大棺の出入が出來る程の穴開きたり。
余は躍りて穴より飛出るに第一に頬を撫づるは吹馴染の海の風なり。吸込みつゝ四邊を見れば草木の深く閉したる所にして恰も墓窖の背後に當れり、草木を掻分けて更に又一歩出れば、ネープルの灣は目の下に横はり、海を離れて上る朝日は余を迎ふる者の如く、灣に寄來る細漣は笑頽れたる笑顏に似たり。讀者よ余は自由なり、自由の身なり、余は手を打ちて踊り、聲を放ちて叫べり、此時の嬉しさは世に譬ふる者やある、アア自由、自由、生て此世に返るも自由、吾妻那稻の顏見るも自由、喜びて抱き附く其細き手を何時まで跳退ずに置くも自由、之を思へば人生第一の嬉さは死で棺の中に生返り、墓場を破りて再び此の世に生返りたる時に在り、嘘と思へば死で見よ、讀者、一旦死だ經驗の有る人ならずば、此嬉しさは話が出來ず、清き空氣は如何ほどに有難き、照る日の光は如何ほどに人の氣を引立つるや、廣き青空は如何ほどに晴々しきや、死だ事なき人間には到底分らぬ問題なり。
是と云ふも畢竟は海賊王ネリの賜、彼れ今警察の手に追詰られ、バレルモに潜伏し、彼れの身に關する祕密は警察署にて幾萬の金にて買ふ程の勢ひなれど、余は全く彼の爲に助かりたるもの、彼れが此墓窖に祕密の穴を開き置きたればこそ此世に出るを得し者なれば、彼が寶藏の大祕密は決して警察などに知しむ可からず、彼れは余の恩人、而も余が命の親なり。
余は斯く思ふ故、再び穴の中に入り、寶物を元の大寢棺に納めて再び外に出來りしが、此時は午前の八時少し前なり。察するに余が死せしは昨日の事にして今日は八月十六日なる可く、余は昨日の晝過より凡そ廿時間ほど穴の中に居し者ならん、外に出でて再び彼の石を取り穴を塞ぐに石と思ひしは石に非ず木の切なり、去れど石と同じ色に作りたる上、殊には草叢の中なれば誰とて茲に祕密の出入口ありと知る能はじ。
余は是だけの仕事を終りて立去り乍ら想ひ見るに、此前の事も此後の事も總て夢の如く浮び來る、先刻までは他日と云ふ事さへ無き身なりしも今は少なくも五十六十までは那稻と共に生延るに極りし身、那稻の手を取り那稻の腰を抱き、共に偕に嬉涙に呉れるのも今夜なり、可愛星子を膝の上に抱上るも今夜なり、親友魏堂と手を握り、墓より出たる歡びを語り逢ふも今夜なり、アヽ今夜、今夜、今夜こそは天にも上る如き心地ならんと、一歩一歩に其樂みを想像すれども悲しや讀者よ、余は僅か一夜の間に余が姿の如何ほど變はり果しやに心附かざりき。