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 白髮鬼
 黒岩涙香
 

        五

 讀者よ、くわんの中と心附くが否、余が節々には死物狂の怪力、湧くが如くに集り來たれり。必死の時には必死の力ありと云ふは此事、此棺を破らずば余は一時間、半時間、否十分間と經ぬうちに再び死なん、空氣無き所に長く生存いきながらへる事もとより出來ぬ所なればなり、余は虎の獲物に飛附くより猶強き勢ひにて棺のふたを跳上げたり。悲しや余の力は何の甲斐なし、音は仕たれど余の手と棺の葢が突當る音のみ棺の破るゝ音には非ず[#「非ず」は底本では「非す」]、其内にも空氣は益々盡き、唯だ呼吸いきの苦きのみかはまなこは外に飛出るかと疑はれ、鼻よりも口よりも熱き血の流れ出るを覺ゆ、今度こそ棺の葢破れずば我身が碎けて死ぬ、嬲殺し同樣に一寸一寸、一分一分、ろ/\と死行くより一思ひに碎け死ぬるが如何ほど優るかも知れずと前よりも又一入の力を込め、あれに荒て上下左右を跳廻はねまはすに、有難し左手の板にメリ/\と破れる音あり、刃物の如く薄き空氣、其所より突入りて、冷たき余の頬を襲ひたり。
 余は全く蘇生の想ひ、深く其息を吸込みて又吐出す、是にて身體の俄に凛々しくなるを覺えたれば、頓て板の割目に手を掛けて又メリ/\と推破るに、此度は事はなはだ容易にて三分と經ぬ内に棺は破れ、余は地獄の釜より飛出る亡者の如く身ををどらせて外に出しが、此時何なるか又孰よりかは知らねど、棺よりも猶ほ太く猶ほ重きかと思はるゝ程の一物、最と凄じき音と共に余が背後うしろの方に落ちガラリ碎けて飛散ると云ふ如く、何やら余の足の邊にバラバラと當るものも有る樣に思はれたり。是れ或は砂にても有る可きか、余は勿論、此落來りし品物が此後余の生涯にだいの關係を及ぼす可しとは知るに由なく、探りて其ものを檢めんともせず、唯恐しき棺の中より迯出にげだし得たるを喜ぶのみ。
 此時初て余は我棺が猶地の底にうづめられずに在る事に心附き有難しと天に謝したり。若し地の底へ埋められたる後なりせば、棺を破る事の益々難きは云ふ迄も無く、縱し破り得たりとても、直ちに土の落ち來り、目も口も塞がりて、到底助かる筈は無きに、余の棺は幸ひに地の外に在りたり。棺の中に居る間は唯だ棺を破り度き一心にて地の外に將底はたそこなるかと考へる暇なかりき、實に有難し余は地の外に在り、上下左右に手を振廻せど障るものとてはいつも無し、身を屈めて地を撫づれば石土塊の如き物も有れど、總體は堅く叩き固めたる地盤なり、孰れぞと見廻せども怪や暗さは棺の中と異ならず、眞ツ黒々と空氣を染傚そめなせしかと思ふばかり、一寸先も一分先も辨ぜられず、一脚歩めば先に同じ地盤の有るや無しやも分らねば、猶又深き穴に落んとも知ず、篤と考へし上ならずば余は一歩だも此所を動く可らず、余は胸を撫で氣を落附け、先づ熟々つく/″\と考へ廻すに、是れ確に余の家の先祖代々をうづめある墓窖はかぐらなり。
 歐州にても米國にても大家と云はるゝ家々には墓場に廣き穴倉を作り之を「一家の埋窖フアミリーウヲルト」と稱し、棺を地の底に埋めずして此墓窖の中に置くを常とす、余の家には何代以前に掘築きしかは知らねど、ネープルの岡の奧に堅固なる墓窖あり、十年前ねんぜんに父の葬儀を營みしとき、余は其棺を送りて入込たる覺えあり、余の棺も其同じ墓窖へ入られたる者に相違なし、余は死する前彼の宣教師に向ひ確に伯爵波漂なる事を名乘たれば、宣教師が棺に入れて此穴へ送り來りし者ならん。
 漸く考へは附きたれど讀者よ余は益々吾が境涯の逃れ難きを知れり、棺は破るに左までも難からざりしかど、此の墓窖は石もて地の底に築きたる者なれば到底破る可き見込なし、外より來りて戸を開き呉るる人有らずば、出去らん事思ひも寄らず、殊に共同の蓄骨堂かたこむとは違ひ、人の入來る用事は無く、今より五年か十年か、將た二十年か余の家の者誰か病死し此穴に葬らるゝ時ならずば此穴の戸は開かぬなり、夫とも猶ほ念の爲なれば先づ戸の所を檢め見んと余は探りに探りて、凡そ一時間餘も經し頃漸く戸の所に達したるに厚き鐵の戸固く、とざし其上外より錠をおろしたる者なれば、推せども動ず叩けども音も無し。
 アヽ余が生返りしは唯だ更めて再び死直す爲めなりしか、惡疫に死する丈にて猶ほ苦みが足ぬゆゑ、更に穴倉の中にて飢ゑかつ[#「飮のへん+曷」、第4水準2-92-63]ゑ絶望し、世間に類の無き、無慘なる死樣をさせんが爲め、惡魔が余の永眠を搖起ゆりおこせし者なるか、何う考へても余の運命は死る外なし、なまじ生返りたるが恨めしゝ、一たび死すは、悲しくとも何人なんぴとにも在る事なり、余は之を堪へ忍ばん、一たび死して猶ほ足らず、人生第一の悲みを二度まで受ねば成らぬとは、いやだ、否だ、余の到底堪へ得る所に非ず、讀者よ余は何うしても此穴より出ねばならず、再び茲に死ぬる事は死でも否なり。


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