凾中の密書
三津木春影
六 二個の疑問の血痕………兇行現塲の調査
今回の殺人犯の行はれた塲所へ、予、須賀原直人が行くは今日が初めてゞある。見れば其家は間口の狹い背高の煤けた家で、いやに四角ばつた堅苦しい建方は、どう見ても十八世紀時代の代物。さて、近寄るほどに江藤の飼犬が一疋表の窓から我々の姿を眺めてゐたが一人の巨漢の巡査が扉を明けて請ひ入れると、飼犬先生機嫌よく二人を歡迎する。通されたのがいよ/\犯罪の室、併しもう其痕跡は何一つ殘つて居らぬ。たゞ床の絨氈の上に一個の醜い不規則の血痕が印せられてあるばかりである。此絨氈は室のほんの中央ほどに敷かれた狹い四角の羅氈であつて、周圍にはピカ/\と磨かれた美しい古風な寄木細工の床が廣く現はれてゐる。爐棚の上には莊麗な戰標紀念の武器の一團、兇行に用ゐたる短劔は其中から引き※[#「抜」の「友」に代えて「丿/友」、U+39DE、67-7]かれたのである。窓際に寄せて一脚の贅澤なる讀書用の机が据はつてゐる其他室内萬般の器具調度裝飾何れも善盡し美盡し、男子としては柔弱の域に陷つたまで奢侈を極めた跡がある。
待ち受けてゐた夏秋警部、保村君の顏を見るが早いか
「巴里電報を御覽でしたか。」
と訊く。
保村君は首肯いて
「今出掛けに見て來ましたよ。」
「佛蘭西の警察も今度は首根ツこをつかまへたと見える。正に電報にある通りでせう。堀江子といふ女、あの晩こゝに訪ねて來たに相違ない――江藤にとつては隨分意外な訪問だつたでせうな。ところで女は嫉妬を起してゐるから、いや、貴郎の跡を跟け的つてゐたの、なぜ幾月も巴里へ顏出しをせぬのと胸倉をとつてこづき廻す、拂ひ退ける、獅噛みつく、張り倒す、逆上する、とう/\女は夢中で手近い短劔を取つて一突きにやつたものでせう。併し一突きといふものゝ、椅子が皆な片隅へ押寄せられてあるところを見ると多少格鬪の時間はあつたのですな。それに江藤が一脚の椅子の脚を掴んだまゝ斃れてゐましたのは、それで禦ぐつもりであつたのでせう。かう考へて來ると兇行の光景が眼前に見る如く判然と解りますな。」
保村君は眉を擧げて
「其樣にに判然御解りになりながら拙者にまで御用ですか。」
「あゝ、御出でを願ふたわけですが、それはまた別問題です――ほんの些細な事柄なんですがな、併し貴君には必ず興味の御有りになることで――全く事件の本筋とは餘り關係のあるものとは思はれませんが………。」
「何のやうな事柄ですか。」
「實は御承知の如く斯樣な殺人犯の後にあつては、警察の方でも現塲の器具調度其他一切の物を有るがまゝに致しておく方針なのでして、よつて今回も何一つ動かしません。家は日夜警官に護衞させてあります。ところが今朝のことです、もう被害者の死體も埋葬し少くも此室に關係のある限りの調査は濟みましたから、幾分は室内の片附けを行ふても差支へあるまいと思ふたのです。すると、此絨氈ですな、御覽の通り、たゞ床の中央に敷いてあるだけで、釘附けにも何にもなつてゐません、で、ふと持ちあげて見ますと、有つたのです――。」
「はア、何が有りましたか――。」
と保村君は心配さうに顏を引緊める。
「恐らく二三十間も距れて御出でになつたらば、我々の發見したものが御目には付きますまい。ソレ、その絨氈の表の血痕です。ねえ在りませう。江藤が殺された時の血は大抵拭き取つたのですが、それ一つが殘つてゐたと見えますそれも大部分はもう下へ浸みこんで了ふたでせうが――。」
「大分さうらしいですな。」
「ところがです、其血痕の眞下に當る床には何の痕跡もついて居らぬのですよ。かう御聞になつたら實に意外に御感じなさるでせう。」
「はア、床について居らぬのですか! まさか此薄い羅氈でそんな筈はないが――。」
「さうです、まう理屈は仰有る通りです。けれどもついて居らぬのは事實ですからなア。」
と、警部は自ら絨氈の片隅を手にとつてまくり上げて見せる。なるほど其眞下に當る邊の白く磨かれた表には何の血痕の染みもない。
「併し絨氈の裏側へは表の血痕がそのまゝ染み出て居る。したらばそれが床へ移らぬといふ法はないのぢやが――。」
「そこです、/\。」
警部はさしも雷鳴高き大探偵の頭を混亂させてやつたのが嬉しくて堪まらぬ如く、焦らし顏に
「それには譯があるのです、では一應御説明しませう。實は床にも血痕が染みてゐることはゐるのです、けれども其位置がですな、絨氈の位置と一致して居らん、つまり飛んでもない見當違ひのところについて居るのです。まア御覽なさい。」
斯う話しながら、今度は絨氈の別の片隅を持ち上げる。見れば成程白い床の面に一個の血痕が判然と現はれてゐる。
「保村さん、これについてはどう御考へですか。」
「なに、これなら解りきつた問題ですわい。此二つの血痕の位置は初めは一致して居つた、即ち床のゝは絨氈の表の血痕が染み透つたのである。併しその後に至つて絨氈を廻したのですな。此樣に釘附けでもなくたゞ敷き放しのものであるゆゑ、動かすのは苦もないことであつた。」
「それは保村さん、絨氈が動かされたに違ひないくらゐなことは、いくら我々でも警官であつて見れば、失禮ながら貴君を待つて初めて氣付くほど迂濶でも有りません。御有るまでもなくそれは明白な事實です、かうして絨氈を廻して二つの血痕の重なるやうにしておけば其形状、其大さ、ピツタリと一致しますからなア。我々の目指す問題はそれでは有りません、兇行發見以來、嚴重に監視して何人をも入れず、室内の何一つ動かさせなかつたにも係らず、果して何者が絨氈を動かしたでせうか、また何の爲に動かしたでせうか、それを研究したいのです。」
予は保村君の嚴しき顏の表情によつて、彼の心内に烈しい興奮の波が騷立つてゐることを推察した。
「夏秋さん! あの玄關の監視に當つてゐる巡査ですな、あの方は日夜この家を見張つてゐたのですか。」
「一刻も去らず張番してゐた筈です。」
「なるほど、併し一寸御注意したい事がありますよ。あの巡査を綿密に御調べなさい。我々の眼のまへではなさるな。我々はこゝで御待ちするで、貴君は彼を裏の室へ引き入れて御訊問なさい。貴君一人の方が白状させるに都合が好い。なぜ人民を此家に入れたか、而かも此兇行の室へ張番もせずに人民を殘して置いたかと御訊ねなさい。さうしたらう、なんて疑ぐる口調で訊ねては不可ない、もう既製の事實と極め込んで、なぜ爲たかと高飛車にきめつけないと駄目ですぞ。何者が此室へ入つたことを己は知つて居るぞ、と出るのぢやね。詰問して見なさい。併し徒らに威嚇して了ふては効が薄い。有體に白状さへすれば其志を憫んで今回だけは特に容《》してつかはすと、斯う賺《》すのが肝要ぢや。間違ひなく今お話《》した通りにやつて見なさい!」
「怪《》しからん、彼にそんな職務上の怠慢が有つたらば、盟《》つて自白させずにはおかぬ!」
と罵りながら警部は室外へ驅け出して行つた。間もなく暴《》つぽい彼の聲が裏の室《》から洩れ聞える。
警部の影の消えたのを見澄《》した保村君は急に狂人《》のやうに跳ね上《》つて
「さア、須賀原君、今の間《》ぢや、今の間ぢや!」
と※《》[#「執/れんが」、U+24360、79-1]心《》に叫び出した。