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 凾中の密書
 三津木春影
 

    四 美人の哀顏あいぐわん………夫には絶對に秘密

 朝來てうらい既に光威くわうい赫々かく/\たる名政治家にはれて異彩を放ちし我々の質素なるしつは、今またはからずも倫敦第一の美人の來臨らいりんによつて一段と面目を施したのである。
 予は有名なる晴海はれうみ公爵の末の姫君の郁子いくこの傾國の美を耳にすること屡々しば/\であつた。その美しさを説いた文章をも讀み、その人の寫眞しやしんに見入つたことも一再でない。併しながら今目前まのあたりに見るその秀麗なる容貌かんばせ精巧せいこうにして妙なる美と、いうにらうたき色香とは、如何なる筆もこれをぢよあたはず、寫眞は無論これを寫し能はぬ。とは言へ、秋の此朝このあしたにして初めて其人と相見あひみ最先まつさきに我々を刺激したる印象※[#判読不能、40-6]艶姿妖態えんしえうたいではなかつた。双※さうほゝ[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]は愛くるしい、が、感動のために蒼白あをざめて居る。兩のまなこは輝いてゐる、けれどもそれはねつ[#「執/れんが」、U+24360、40-8]びやうめいた輝きである。感じの鋭き唇は自制のためにと固く引き締められてゐる。恐怖である――美ではない――このなまめかしき客が開いたの敷居の上に入口を組枠として肖像畫せうざうぐわの如く突立つた時、初めてその眼に登つたのは實に恐怖の色であつた。
「保村先生、夫は御宅へあがりましたでございませうか。」
「ハイ、只今いらツしやいましたよ、夫人。」
「先生、アノ、後生ごしやうでございますから何卒々々どうぞ/″\わたくしがこちらへ御伺ひ致しましたことは、寺根には御知らせ下さいませぬやうに御願ひ致したうございます。」
 保村君はひやゝかに頭を下げて、夫人に椅子に着くやう身振をした。
「貴夫人たる貴女あなたからさういふ御言葉を頂くとわたくしはなはだ困難なる位置に立ちまする。まづ御掛け下さいまし。そして御希望のおもむきをうけたまはらうではございませぬか、たゞあらかじ御斷おことはりを致しておきまするのは、或は無條件の御約束は御受けが致しかねまするかも知れませぬので、その邊を御含おふくみおき願ひ度うございまする。」
 夫人はへやを横切つて、みづから窓際の椅子に窓に背を向けて腰掛けた宛然さながらこれ女皇ぢよわうの態度である――すらりとした、優美なる、飽迄あくまで女性ぢよしやうらしきその姿!
「保村先生。」と言ひ出した。物言ふたびに白き手袋した兩の手をたがひに掴み合はせたり放したりしつゝ「わたくしは殘らず御打明おうちあけいたしまする。さう致したら先生の方でも御打明け下さることゝ存じますから一體夫と私との中は御互にもう萬事につけて信じ合つて參つた仲でございますけれども、たゞ一つ例外のことがございますの。それは政治といふものでございます。政治の問題となりましたが最後、夫はきつと口をつぐんでしまつて何一つ打明けやうとは致しませぬ。そこで昨晩の事でございますが、私共わたくしどもの宅におもひがけぬ不幸が起りました。何か書類が紛失致したとだけ私にも解りましたけれども、事柄が政治にわたつた問題だと申すので、いつもの通りどうしてもその眞相をば知らして下さいませぬ。けれども私は必要上是非とも――ハイ、必要上と申しますわ――是非ともその眞相を知らねばなりませぬ。ところで總理大臣の田丸樣や寺根を除いて、天下に事實を御存知の方は先生御一人よりほかにございませぬ。ねえ、先生、ですから私に事柄の眞相と、その成行をお洩らし下さいませ。殘らず御洩らし下さいませ、先生。若しや致しますると、事件をお願ひ致しました夫の利害を御考へ遊ばして、御隱し遊ばすかも知れませんけれど、どうぞそのやうな御掛念ごけねんなく御話おはなしが願ひ度うございますわ。何故なぜと申しまするのに、私が眞相を知ると申すことは寺根にとつてかへつて大層な利益になるのでございますもの、そのぬすまれました書類と申しますのは一體どのやうなものでございまして?」
「夫人、貴女あなたの御訊ねのまゝは全く御答への出來兼できかねる問題でございます。」
 夫人は「あゝ!」とうめいて兩手で顏を覆ふた。
「ですが夫人、これは道理をよく御考へが願ひ度いのですぞ、御主人は事件の眞相を貴女には御隱しになつた方が好いと御定おきめになつたのでございませう、すれば、職業上の秘密の保證を立てゝ承つたばかりのわたくしが、貴女に御打明けすることが出來るものでございませうか私にそれを御訊ねになるのは御無理と申すもので、御主人に御訊ねなさるこそ御順當ごじゆんたうかと思はれますがなア。」
「いえ、主人には何度訊ねたか知れませんの。けれども、どうしても話して下さいませぬゆゑ、もう頼みの綱は先生ばかりと思ひ込んでかうして御伺ひ致したのでございます。先生、はつきりと仰有つて下さるわけに參りませぬならば致方いたしかたもございませぬけれど、せめて一點だけでも御聞かせ下さいませぬか。それだけでもどんなに御嬉しいか知れませぬ。」
「一點とおつしやるのは?」
「アノ、なんでございませうか、今度の事件は夫の政治家としての未來に災難を及ぼすやうなことがございますでせうか。」
「さうでございますな、それは御配慮のとほりです。萬一うまく解決が付かぬ塲合ばあひには、御主人のために非常な不幸な結果をもたらすものと御覺悟がなくてはなりませぬ。」
「あゝ、どういたしませう!」
 夫人は鋭い嘆息を洩らした。第一の疑問うたがひがいよ/\それと決定し三人の嘆息である。
「では先生、もう一つぎり、夫がおもひもかけぬ今度の災難を初めて發見しました時のその顏付から察しますると、その書類を紛失致しましたゝめに何か恐しいおほやけの大事件でも起りさうに思はれましたが………。」
「御主人が其樣におつしやつたのなれば、たしかに左樣でございませう、私が批評を狹むわけには參りませぬ。」
「けれども、公の騷ぎと申しまするのはなんでございませう、先生。」
「ソレ/\、またさういふ無理な事をおつしやる。やはりそれには御答へが出來ぬと申上げるより仕方がございませぬ。」
「あゝ、もうむを得ませぬ。それでは此上御邪魔致さずに御暇おいとま致しまする。先生が御洩らし下さいませんでも私は御怨みは申しませぬ。その代り先生の方でも私のことを惡しからず思召おぼしめして下さいませうね。私のまことの心持ちは、たとへ夫の意志にそむかうともその心配をわかちたいとより他にはございませぬのですから。では御暇致しますわ。あゝ、もう一度繰返して御願ひ致しておきますが、私が御訪ごたづね致しました事は、くれ/″\も夫には御知らせ下さいませぬやうに。」
 夫人は扉口とぐちで更に我々の方を振り返つた。あでやかにもなやましき顏、物に驚いた眼、引き締めた唇――それが予にとつての最後の印象である。斯くて夫人は出て行つた。
 衣摺きぬずれの音次第にかすれ、つひに玄關のの響く音が聞えると、保村君は微笑みながら
「さア、須賀原君、美人は君の領分ぢやが、一體あの夫人の計畫は何だらう。實際なんの目的でやつて來たのだらう。」
なんのと言つて、全く夫人の言葉ではつきりしてゐるぢないか。あの心配は無理はないね。」
「フン、さうかねえ! まア夫人の顏付を考へて見給へ、あの態度あの興奮を押し殺してゐるところ、あの不安さうな樣子、あの根掘堀り葉堀り執拗しつこく物を訊く有樣を考へて見給へ、また斯ういふことも記憶し給へ、あの夫人は輕々しく感情を色に現はさぬ階級から來た女であるといふことだね。」
「非常に物に感動してゐたのはたしかだね。」
「それのみならずだ、斯ういふことに氣が付かなかつたかい――自分が事件の眞相を知るといふことが夫にとつても[#「夫にとつても」は底本では「夫によつても」]有益だといふことを、一種の不思議なねつ[#「執/れんが」、U+24360、51-5]しんでもつて言ひ張つたではないか。その意味はなんと思ふね、君は。も一つ注意せねばならぬことは、夫人が窓の光を背負しよつて我々にむかつたことぢや。つまり自分の顏色がんしよくをなるべく我々に見られまいと努めて居つたではないか。」
「さう/\、わざ/″\あの椅子へ腰掛けたつけね。」
「ところがぢや、女の意志ちゆう奴は由來ゆらい不可思議千萬で殆ど端睨たんげいからずぢや。さういふ流砂ながれずなのやうな上へ、君はどうしていへを建てられるか。女のちよつとした毛ほどの行爲も、これを解剖すれば數冊の本にならうし、またさうかと思へば、隨分一本の頭のピン、若しくは捲髮まきげの道具の上に驚天動地の活動の源因をおいてることも有るからねえ。須賀原君、ちよつと失敬するよ。」
何處どこへか出掛けるのかね。」
「神戸街を一つ探つてやうと思ふ。我々の疑問の解決は一に懸つて江藤えとう律裁りつさいにあるのだからね。いや、どのやうな形式でそれが解けるか、まだ何等の暗示さへ得てらぬのは事實ぢやが、とにかくわしはさう思ふ。總じて事實にさきんじて理論を組立てるのはだいなる誤りぢや。君は一つ留守居をして、客が來たらば應接してくれ給へ。若し間に合つたらば晝飯ひるまでには歸つて來て一しよに喰べやう。」


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