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 外交の危機
 高等探偵協會
 

   九、僕は最う先刻から探偵を初めて居る
……侯爵といへども怪しまねばならぬ……

 緒方氏は汽車が品川へ着くまで凝乎じつと默り込んで、何かしきりと考へる風情で、一ごんも口を利かなかつた。やがて突然窓から外を眺めて、
「どうだい、和田君、氣持のいゝ景色ぢや無いか。」
 と叫んだ。
 私は此の指さすにつれ、戸外そとを眺めると、同時に氏は冗談を云つてゐるのぢや無いかと思つた。汽車はいまゴソ/\した實にきたならしい町の間を走つてゐたからである。だが氏は直ぐと自分で其理由を説明した。
緒「あの小さな亞鉛トタンぶきの尾根やねが續いた上に、聳え立つてゐる建築を見たまへ。恰度鉛色の海上に在る煉瓦石れんぐわいしの島を想はせるぢや無いか。」
 私は答へて、
私「アヽ、れかい、あれは中學校の寄宿舍だよ。」
緒「ヤ、あれこそ燈臺とうだいと云ふべきものだ! 未來の烽火のろしだ! あれこそ數百の燦爛さんらんたる小さな種子たねを秘めたさやで、あれから總明なはるかに優れた未來の大日本が生れるのだ。」
 と云ひながら、ふつと語調を變へて、
緒「トコロで、君はあの春子孃をどう思ふね?」
私「さうさな、何となく氣の強い女のやうに想はれるが。」
緒「さう、だが僕の見る處が誤つてゐなければ、あの女はたしかに善人だよ、君は知るまいが、春子孃とあの兄貴の權藤駿策と云ふ男は、名古屋の或る製絲會社の主人の二人切りの子なのだ。三輪氏が去年の冬名古屋を旅行してゐる時に春子孃を見初みそめて婚約が成立つた譯なので、あの兄貴の方はつまり附添つきそひと云ふかくいもとと一緒に東京へ出て來たのだ。で、吉日きちにちを選んで愈々華燭くわしよくてんをあげやうと云ふ矢先に、今度の大珍事が起つたものだから、春子孃の方は其儘看護を續ける事になるし、兄貴の方はツイ居心地の好いものから、その儘一緒にヅル/″\同居する事になつてしまつたのだ。これ丈けは今しがた僕が調べを付けた處だが、まだこれから大分今日こんにち穿鑿せんさくしなければならぬ事があるよ。」
 私は呆然として緒方氏の顏をみつめた。此男、いつの間にかんな細々とした事を取調べたのであらう?」[#「取調べたのであらう?」」はママ]
 併しそれに就て、まだ私が何事をも訊ねぬ前に緒方氏は、更に私に向つて、
「君はこの二三日にさんち暇が有りますか。」
 と訊ねた。私は此頃は以前と違つて、駿河臺博愛病院に助手として通つてゐるので、緒方氏も左樣々々さう/\私に此事件の手傳ひをさせては如何どうかと氣遣つたのであらう。私としても此頃は病院の方もやゝ忙しい折であつたが、竹馬の友の此生死問題には何をいても努力せねばならぬ樣な氣がする。そこで、
「ナニ二日や三日は潰しても、決して差支へ有りません。」
「それは好都合だ!」
 と緒方氏は喜んで、
「ぢやあ又一緒にこの事件の考究かうきうに取係る事にしやう。で第一に僕等の爲すべき事は、警視廳へ行つて、富樫探偵に會ひ、逐一その探偵の結果を聞くことだ。さうすればまづ此事件はどの方面から探偵の歩を進めてくべきものだか、大體の見當がつく筈だ。」
私「だけれど、貴下は先刻さつき手掛りは着いてゐると仰有つたぢや無いですか?」
[#「緒」は底本では「三」]如何いかにも、數通りの手掛りが有ると云つたさ、けれどもこれから探求の歩を進める事によつて、その所謂いはゆる手掛りの價値かち如何いかんが解ることになるのです。およそ犯罪中で最も探偵に困難なのは目的無しに爲された犯罪である。これは何處から其犯人を搜つて行つていゝか頓と見當が付かない、だが、今眼前がんぜんのこの事件には慥かに目的がある。この秘密書類を盜み出す事によつて、だいなる利益を受けるのは、そも/\誰人たれびとであるか? 云ふ迄も無く一の海を隔てたの某合衆國がさうである、つい佛蘭西ふらんす獨逸どいつ露西亞ろしやどの國にてもこの秘密條約を早く手に入れるためには、如何なる多額の費用をも拂はうとしてゐる。ついでまたこの秘密書類を盜み出してどの國かの大使館にり込んだ物は、一つかみに數十萬の利益を[#「利益を護る」はママ]事が出來るだらう。又怪しいと認められる人物中には、例の松原侯爵も入れる事が出來やう。」
私「エツ、松原侯爵ですと?!」
緒「政治家の心中ほど測り知りがたいものは無い。侯爵が何かの原因で、今この書類が突然紛失したならば、と希望してゐられる事が無いとも斷言出來ないからね。」
私「とは云へ、侯爵に限つてそんな筈は有りさうにも思はれ無いぢやないですか。」
緒「まづ十中八九有りさうにも思はれぬが、決して斷言は出來ない。にして、今日はひとつ侯爵に會つて、どんな話をするか聞いて見ることにしやう。だが君、實はかうやつてゐるうちにも僕はもう先刻さつきから探偵を始めてゐるんだよ。」
私「エツ!」。


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