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 外交の危機
 高等探偵協會
 

   二、見るも哀れな蒼白の病人
……夫れで看護は妙齡としごろの一美人……

 中央病院の二階へ駈けのぼつて、化學室のドアを開けて見ると、居る、居る、先生例の通りアルコホル洋燈ランプや、試驗管や、藥罎くすりびんのゴチヤゴチヤした中で忙がしさうに何かやつてゐたが、私を見ると一枚の試驗紙を指で摘みあげたなり、
「やア、和田君、飛んだ所へ來たね、今此紙が青色の儘でればよし、若し赤に變つたら人一人の生命いのちに關るつてとこなんだよ。」
 と云ひながら、くだんの試驗紙を矢庭に藥罎の中へ突込んだが、これが見る/\赤色に變じたのを見て、
「オヤ、オヤ、大抵こんな事だらうとは思つたがな……和田君、一寸待つて呉れたまへ、今御用の筋を承るから、其處そこに煙草がある、何卒どうぞ御遠慮なしに……」
 氏は卓子テーブルり掛つて、帳簿とも思はれるものに何か暫く記入して居たが、
「で、何だね、急いで此處まで君が御出張になつたのは?」
 と云ひながらペンをいて私のかたを向いた。私は默つて例の手紙を渡すと、氏は注意深く讀み終つて、私に返しながら、
緒「どうも是だけではよく分明わからんが……何事だね?」
私「サア……」
緒「だが此手紙にはちよつと面白い處があるよ。」
私「でもそれは代筆ださうですぜ。」
緒「さうサ、女が代筆したのだ。」
私「え、女の手蹟ですつて?」
緒「さうだ、そして一風變つた性格の女らしいテ、まづ此事件で第一に分明るのは、この君の友人は善惡いづれにせよ、一風變つた性格の女と交際つきあつてゐると云ふ事だ。なにしろ斯うやつて緊急を要すると云つてゐる人だから、これから即刻すぐ出掛けやうぢや無いか。そして一體外交官先生、什麼どんな災難に出逢つてゐるのか、又どんな女が此手紙の代筆をしたのか、ひとつ見るとしやうぢや無いか。」
 私等わたしたちは直ぐに東京驛へ行つた。都合よく横須賀きの汽車が、今發車するといふ所へせ込んで、一時間も經たぬうちに、大森おおもり鹿島谷かじまだにの三輪敏雄の邸宅やしきへと乘り込んだ。郊外の常として樹木の繁つた、庭の廣い閑靜な場所ところである。を通じると、二人は立派な應接間へ通された。やがて、二三分して顯れて來たのは主人三輪では無くて色の黒いガツシリした四十恰好の男であつた。どことなく兩眼りやうがんに愛嬌のある、如才無げな應接振もてなしぶりで、至極叮嚀に私等わたしたちに挨拶して、
「いや、ようこそ御出おいで下さいました。敏雄が今朝程からそれはもう待遠しがつて居りました。今度の事件に就てはもうはたの見る目も痛々しい程心配して居りますので、御助力下さる方なら何方どなたにでもそれこそ藁屑にでも縋らうと云ふ風です。」
 緒方氏は例のブツキラボウの調子で、
「アヽ左樣さうですか、實はまだ委細の事は伺ひませんですがね、處で失禮ですが、貴下は此家こちらの御家族とも御見えになりませんが[#「御見えになりませんが」は底本では「御見えになりまんが」]…………」
 男はギヨツとした風で、思はず緒方氏の顏をみつめたが、一寸下を見ると直ぐ笑ひだして、
「なるほど、貴下は私の指環に彫つてある權藤ごんどうと云ふ認印みとめを御覽になつたのですな、どうもこれは素早い事です。私は左樣さうと知らず瞬間ちよつとのまに不思議な事をなさる御方だと思ひましたよ、いかにも私の名は權藤ごんどう駿策しゆんさく[#「權藤駿策」は底本では「權藤俊策」]と申して此家こゝの者では有りません。實は私のいもとの春子と申すのが、此家こゝ主人あるじの敏雄に嫁ぐことになつてゐますので、つまり私と三輪とはやがて兄弟の間柄になる筈になつて、居ります。妹は只今敏雄の病室に居りますが、最早もうこれで約二個月と云ふもの附切りに附いて居ります。では、彼方あちらへ御案内致しましやう、一刻も早くと待兼ねて居りますから。」
 權藤氏に導かれて私等が入つたしつ[#「私等が入つた室は」は底本では「私等は入つた室は」]、見るからに明るい、美々しく飾られた書齋で、明け放した南向きの窓からは輕快な初夏の風がと花園の薔薇の匂を送つて來る。その窓際の寢椅子ソフワの上に横たはつてゐる色蒼白あをざめ、病みほうけた青年わかもの、それが紛ひもなく三輪敏雄であつた。一個ひとり妙齡としごろの美人が其傍そのそばに座つてゐたが、入つて來た私等の姿を見ると、立上つて、
「あなた、わたしはあちらへ參りますわ。」
 とき掛けやうとする、三輪は「それには及ばぬ」と云ふ風に確乎しつかりその手を押へて、私をかへりみ、いとよろこばしげな面地おももちで、
「や、これは和田君、久濶しばらくでした、いつ其樣そんなに美事なひげをお立てになつたか、うつかり見違へるところでした。にしても早速のおでゞ有難う。で、此方こつちはかねて御高名を聞き及ぶ緒方緒太郎先生ですか。」
 私は簡單に二人の紹介を濟せた、さうしてふりかへると、私等を案内してくれた權藤氏は何時いつ此室こゝを去つて、殘つてゐるのは私等三人とくだん妙齡としごろの美人だけであつた。この美人はやがて三輪の話で例の權藤氏の妹で[#「例の權藤氏の妹で」は底本では「例を權藤氏の妹で」]近々きん/\三輪の新妻となるべき人、其名を春子と呼ぶのだと云ふ事が分明つた。


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