優しき夜の……
 ― Alice Arisugawa FanFiction ―
(2002/2/3 14:35)
神崎 真


 その日、
 疲れた身体を引きずるようにして帰宅すると、アパートの玄関前では火村が私を待っていた。
「よう、お疲れ」
 ドアと反対側の手すりにもたれていた彼は、そう答えながら身体を起こし、階段を上がってきた私を見る。
「お……まえ、なにやっとるんや、そんなところで」
 思わず呆然と問い返したのも、無理はなかっただろう。
 時刻は既に8時をまわっている。言うまでもないが、夜のだ。学生時代ならいざ知らず、既に卒業して半年以上が経ち、しかも私は就職の関係で大阪へと居を移してしまっている。そんな友人を訪ねるのには、かなり唐突で遅い時間帯ではないか。
 だが火村は、驚く私に小さく肩をすくめてみせる。
「なに、用事でこっちまで来たんでな。久しぶりにお前と呑もうかと思ったんだ」
 そう言う彼の足下には、ふくらんだ酒屋の袋が置かれていた。そして、幾つも散らばるキャメルの吸い殻。
 私は思い出したようにポケットを探り、玄関の鍵を取り出した。急いでドアを開け、長いこと立ちっぱなしでいたのだろう友人を、ささやかな私の城へと招き入れる。
「まったく、そんな急に来んでも。連絡くれたら良かったのに」
 靴を脱いで上がり、手探りで灯りをつけた。上着を脱いで部屋の隅へと放り投げ、ネクタイを引き抜きながら流しに向かう。
 何かつまみになるようなものが残っていただろうか。
 冷蔵庫の中をのぞく私に、火村が声をかけてくる。
「仕事、大変そうだな」
「……まあな。さすがにしんどいわ」
 つまみをどうするかに気を取られていた私は、思わず本音を漏らしていた。
 声にため息が混じったのに気付いたのだろう。酒をテーブルに置いた火村が、こちらへとやってくる気配を感じる。
「俺がやっとくから、シャワーぐらい浴びてこいよ」
「ええんか」
 振り返った私に、彼はひょいと片方の眉を上げてみせた。
「そんな疲れたツラされてりゃな」
「……すまん」
「中で寝るなよ?」
 何も訊かずただ背を叩いてくれる火村に、私は小さく口の中で礼を言って、場所を譲った。


 ざっと熱い湯を浴びて戻ってくると、ローテーブルの上に幾つもの皿が並んでいた。
「おお、まともな飯や!」
 思わず歓声を上げた私に、火村は呆れたような目を向けてくる。
「……ちったぁ冷蔵庫にもの入れとけよな」
「なあ、食ってええか」
「いけないと言ったら、こっちが頭から喰われそうだな。どうぞ」
 なにやら失礼なことを言っていたが、当面は目の前の料理を口に入れたいという欲求の方がまさった。狭い四畳半ですっかり椅子代わりとなっているベッドへと腰を下ろし、箸と茶碗を手に取る。
「いただきます」
 向かいの床に直接座った火村へ、ひとつ頭を下げた。
 しばしもくもくと箸を動かす。
 うまい。
 このところ残業が続いていたので、まともに食事していなかったことを痛感する。やはり外食や仕出し弁当では、腹はふくれたとしても、どうしても物足りないものがあった。
 夢中になって食べている私の前に、ことりと缶ビールが置かれる。
「新人でも残業ってのはあるんだな」
「そりゃそうや」
「どうせまだ使い走り程度なんだろ? それでも仕事はあるわけだ」
「使い走りだからこそ、あっちこっちからいろいろ押しつけられるんや。ま、これも下っ端の宿命ってわけやな」
「……なるほどな」
 返答までに一瞬間があったような気がして、私はふと顔を上げた。
 だが、火村は何事もなかったかのように、ビールをかたむけている。

*  *  *

「おい、おい! こぼしてるぞ、アリス!」
 やけに遠くから聞こえてくる声に続いて、手の中から飲みかけの缶が取り上げられた。
「……あ?」
「判った……疲れてるのは判ったから、お前はもう寝ろ」
「……せやけど、せっかく君が……」
「またいつでも来てやるさ。こちとら暇な院生だからな。ほら、横になれ」
 肩を押され、ベッドへと横たえられる。私はしばらく抵抗していたが、それでもやはり疲労と襲ってくる睡魔からは逃れられなかった。
 慣れない社会人生活で体力を消耗していたことも、気苦労がたまっていたのも事実で。
 正直言って、自分がけっこうひどい状態にあったことは自覚していた。だが、火村が ―― 気のおけない友人が訪ねてきてくれたことで、急に肩の力が抜けたような心地がしたのだ。そして、緊張がゆるめば、当然身体は休息を求める。どうしようもなく ――
「す、まん……」
 なんとかそう口にしたが、それが火村の耳に届いたかどうかまでは判らなかった。


「ったく、無理しやがって……」
 規則正しく寝息をたて始めた私を見下ろして、火村は小さくため息をついた。
 そうしてできるだけ音を立てないよう、あたりをざっと片づけにかかる。
 ―― と、その途中で、彼はふと手を止めた。目は、狭い部屋の中へ無理に押し込められた、本棚の一角へと向けられている。その中の、本と本の隙間に差し込むようにして置かれた、原稿用紙の束。
 引き寄せられるように手を伸ばし、そっと抜き取る。
 目を落とせば、彼にとっては見慣れた文字が、幾枚もの紙面を埋めていた。白々とした蛍光灯の光の下、立ったままゆっくりと文字を追ってゆく。
 やがて、その口元に小さく笑みが浮かんだ。
 原稿用紙を揃え、元通りの位置へと静かに戻す。
 彼は、眠る私を微笑んだまま見下ろした。
「……それでも、お前はちゃんと書き続けているんだな」
 ぽつりと落とされた言葉は、ひどく、優しい響きを持っていた。
 部屋の灯りを消して玄関から出ると、鍵を新聞受けから放り込む。
 固い金属音をたてる階段をゆっくりと降り、そうして彼は、立ち止まって夜空を見上げた。
「 ―――― 」
 街灯の光に浮かぶ白い横顔からは、その胸の内の想いを示すものなど、なにひとつうかがい知ることはできない。
 やがて彼は、取り出した煙草をくわえライターを鳴らした。
 吸い込んだ息を煙と共に吐き出し、ゆっくりと歩き始める ――


(2002/2/3 15:56)


もんのすごい昔に、チャットで即興したネタを引っ張り出してきました。
きっと火村も何か疲れることがあって、アリスに愚痴りに来たのですよ。けれど、ただその面倒を見てやるだけで、彼の心は充分に救われるのですね……


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