桜闇
 ― Alice Arisugawa FanFiction ―
(2001/02/24 17:49)
神崎 真


 喉の渇きで、目が覚めた。
 闇に慣れた瞳に映っているのは、なじみのない、けれど確かに覚えのある天井板。
 しばらく考えて思い出す。ここは北白川だ。
 そうだ。確か新入生歓迎コンパとやらでサークルの知り合いに火村ともども引きずり出され、何軒も安い居酒屋をハシゴしたあげく、最後は彼の下宿へと転がり込んだのだった。
 いったいいまは何時頃なのだろうか。そっと首をまわすと、盛り上がった掛け布団が目に入った。どうやら我が友人は、安穏とした眠りの淵にあるらしい。
 音を立てぬよう、そっと借り物の布団から抜け出した。はだしの足で静かに畳を踏み、流しへと向かう。洗って伏せたコップを手探りでとり、水をくんだ。
 一杯の水は、大げさでなく甘露のごとき味わいだった。ごくごくとのどを鳴らして飲み干す。
「ふぅ」
 思わず息をついた。
 さて、寝直すかと思ったところで、ふと尿意を覚える。アルコールを摂取するとトイレが近くなるものだ。
 再びそっと部屋を横切り、廊下へと出る。この下宿のトイレは一階にあった。
 下宿内は静かなものだった。時間が時間とはいっても、それは大学生にとってあまり関係はない。特に四月に入ったばかりの今の時期、たいていの下宿は徹夜で騒ぐ部屋の一つや二つあるものだった。が、ここではあまりそういったことはない。店子がおとなしいというよりも、すでに老境に入りつつある大家さんに、みなが気を使っているのだろう。
 若かりし頃はさぞや美人であったろうと思わせられる大家さんは、店子一同や出入りするその友人達にまでひどく気を使ってくれる人だった。それもけして押しつけがましくはなく、まるで孫を相手にするかのような ―― などと表現しては、まだ六十そこそこの彼女に対して失礼だろうが ―― 穏やかで優しい気遣いだ。それだけに学生達も、彼女には迷惑をかけまいと、騒ぐときはどこかよそへと出かけてゆくのだ。


 小用を済ませ廊下を歩いていると、庭に面した掃き出しから月明かりの差し込んでいる様子が目に入った。板張りの床が、青白い光に四角く切り取られている。どうやら今宵の月はなかなか見事なものらしい。
 興味を覚えて、足をそちらへと向けた。
 木枠の大きな窓越しに、夜空を見上げる。
 思わず息を呑んだ。
 そこはさほど広いともいえない庭先だった。何本かの木が植えられており、大家さんによっていつも丁寧に手入れをされている。が、火村の部屋とは反対側にあることもあり、これまでどんな木が植わっているかなど、気にしてみたことはなかった。
 よもやこれほど見事な桜があったとは。
 木自体はこぶりなものである。せいぜい二階の床に届くかどうかという程度だ。
 だが、いままさに満開の花をつけたその姿は、降り注ぐ月光を浴びて夜闇のなかに浮かび上がっていた。淡い、薄紅色の花房は、まるでそれ自体発光しているかのようで。
 目を、奪われる。
 視線を離すことができない、圧倒的なまでの、美しさ。
 どれほどそうやって立ち尽くしていただろうか。
 肩に手を置かれ、思わずびくりとはねあがった。ひきつった、声にならない吐息が漏れる。
「どうしたんだ、いったい」
 過敏なその反応に、火村が不審そうにたずねてきた。
 振り向いて友人の姿を認めた私は、ほっと息をついて胸をなで下ろす。
「ああ、びっくりした。いきなりおどかさんといてくれ」
 冗談抜きで、心臓が止まるかと思ったのだ。
 火村はちょっと眉を上げて見下ろしてくる。
「驚いたのはこっちだぜ。部屋にいないからどうしたかと思えば、明かりもつけない廊下でぼけっと突っ立ってるんだからな」
 寝ぼけでもしたのか?
 口の悪い友人に、私は黙って外を指差した。指先を追って、火村も庭へと視線を投げる。
「へぇ」
 短いが、確かに感嘆する声を聞いて、私は満足した。
「すごいやろ? この庭に桜があったやなんて、ちっとも知らんかったわ」
「俺もだ。去年咲いてるのを見てるはずなんだが、全然意識してなかったな」
 言いながら、その視線は桜から離れない。



 しばらく、肩を並べて夜桜を眺めていた。
 やがて、火村がぽつりと呟く。
「こわいな」
「うん」
 うなずいた。
 過ぎた美しさは、何故か恐怖に繋がった。もしかしたら、魂をひきずりこまれそうな感覚に、本能が警告を発するのかもしれない。
 日本人にとって、花といえば桜という風潮がある。なんでも散り際の見事さを戦時中に賛美したのが始まりだとか。それまではむしろ梅の花の方が好まれていたという。だがこうして闇に浮かぶ花を眺めていると、やはり桜こそが特別なのだと強く思う。
 どこか、狂気すらはらんだ、怪しく幻想的な、美 ――
「桜の下には、鬼がいるっていうよな」
 火村が言った。
「そうか? 死体が埋まってる、ゆうんなら良く聞くけど」
 桜の下には死体が埋まっている。その血をかてとしているから、桜の花びらは薄紅色をしているのだ、と。最初にそう書いたのは果たして誰だったか。おそらくはその人間も、また火村の言う鬼の存在を語った者も、咲き乱れる桜の姿にただきれいなだけではすまない、匂い立つような狂気を見たのだろう。
「……鬼も死体も、似たようなもんか」
「死体ならむしろ『仏』やろう」
 たしかに中国では死者の魂を鬼と表現するが。やはりこの国では死体と言えばホトケだ。現にミステリでも、刑事は被害者をそう呼ぶではないか。
「ああ、そうだな」
 火村は素直にうなずいた。そして、さらりと続ける。
「じゃぁ、鬼は死体を作った奴の方か」
 その口調に、私はどこか引っかかるものを覚えた。
 桜から視線をはずし、隣に立つ男を眺める。月光を浴びて、やはり白く浮かび上がる横顔。そこには別段特別な何かなどうかがえることもなく。
 だが、何故だろうか。
 彼の言葉をそのまま聞き流すことができず、「なら俺は鬼やな」と、そう答えていた。
「毎日頭の中で人殺ししてる」
「お前は違うさ」
「同じや」
 反論を封じ、断言する。
 私が小説を書き始めたきっかけを、彼に話したことはなかった。
 自らの、心に刻まれた忘れえない傷。それを癒すために小説を書き、そしてそのために架空の世界で他者を殺し続けている私 ――
 そんな私は、やはりきっと鬼なのだから。
 そう。人は、誰でも心の中に鬼を飼っている。私も、そして多分火村も。それはおそらく、なんら特別なことなどではない。そして、だからこそ人はみな、桜の下に狂気を見る。他でもない、己の内にあるそれを映して。
 けれど……
「もう寝ようや。寒くなってきたわ」
 話を断ち切るように言った。
「……そうだな。これじゃ風邪ひいちまうか」
「夜が明けたら、改めて花見しよう。団子でも食いながら」
 そうしてふたり、暗い廊下を歩きはじめる。
 途中で、私は一度だけ振り返った。
 桜はまだそこにあった。昼の光の中であれば、ただきれいなだけなのであろう、淡く煙るほの白い花弁。
 だが、いまはまだ見る者の心を惹きつけた。夜風にゆっくりと揺れながら、ここにおいでと無言でさし招いてくる。そうして、私の下で狂うがいいと、妖しく笑んで誘惑する。
 俺らは行かんよ。
 胸の内でそう答えた。
 心に鬼を飼ったまま、私達は『ここ』で生きていくから。
 きびすを返し、階段を上がる火村の背中を追いかける。
 後にはただ、ひっそりと花びらが揺れているばかりで ――




























(2001/02/24 20:13)


珍しく、アリスの方に重点を置いた話です。……っていうほど内容はないんですが(苦笑)
いやなに、実はこの壁紙を使いたい一心で書いた話だったりするんですけど。
ほんと素材屋で表示させた時、魂を抜かれましたよ。あまりの美しさに。(注:サイト改装前には、夜桜の壁紙をレイアウトしていました)

ところで文中でアリスが言っている『桜の下には死体が〜』の原典を探していて、高原旭さんと鷹栖希有さんにはいろいろとお世話になりました<( _ _ )>  けっきょくはっきりとした結論は出ずじまいだったのですが、とりあえず梶井基次郎の『桜の樹の下には』と渡辺惇一の『桜の木の下で』 あたりが有力な説のようです。あと死体は出てきませんが、桜の下に狂気を見、鬼に出会ったのが坂口安吾の『桜の樹の満開の下』。
こんなにたくさんの候補が出てくるあたり、やはり日本人にとって桜というのは一種怪しい、蠱惑的で狂的な印象を抱かずにはいられない花なのでしょうね。

それともうひとつ。『笑う』という言葉に、花が咲くって意味があることは一般常識なのでしょうか? 私はついこの間まで知らなかったのですが……


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