旅館の裏手にある山は、見事な秋の気配に彩られていた。
東北地方にある、小さな宿でのことである。
いったいどちらが言い出したのだったか。ここのところあまり遠出をしていないな、と言う軽口がふとあって。その週末にはもう、私と火村は二人、のんびり温泉へと浸かりにやって来ていた。
片桐の紹介で、あまり人の多くない、秘湯という色合いの強い温泉場を選んだのだが、これがなかなかに感じの良い宿だった。部屋数も従業員もけして多くはないのだが、調度品といい、出されてくる料理といい、値段の割に吟味された質の良いものだ。火村もけっこう気に入ったらしく、言葉には出さないが上機嫌なのが雰囲気から察せられた。
昨晩は少々遅めに着いたので、庭などの様子は見ることができず、朝食後に改めて散策に出てみた。と、小振りな日本庭園から、裏山へと続く散歩道が延びているのを発見する。
これを歩いてみない手はないだろう。さっそく踏み込んでゆくと、前述の通り秋の風情を満喫することとなったのだ。
まず目に飛び込んでくるのは、とりどりに色づいた木の葉の群。
オレンジや黄色といった、鮮やかな色彩に変じた葉が、あちこちの枝を飾っている。進む足元にも落ち葉が散り、それらは何種類もが入り混じって目を楽しませてくれた。あまり植物に詳しくない私は、せいぜいイチョウぐらいしか見分けがつかなかったが、そもそも景色を楽しむのにそんな知識など必要ではないのだ。
「お、キノコが生えてるで!」
視界の端に入ったそれに、思わず声を上げて駆け寄っていた。
なかなか派手な色をしたキノコが、小さな群をなして木の根本から顔を出している。手を伸ばして触れてみると、意外になめらかな感触だった。ちょっと、上質のビロードを思わせる。
「あんまりほいほいさわるなよ。毒があったらどうするんだ」
火村が肩越しにのぞき込んでくる。
「大丈夫やて」
「へぇ? お前がキノコに詳しいとは知らなかったな」
わざとらしく眉を上げてみせるのに、私は指を振って舌を鳴らした。
「一般に言われとる『色が派手なのは毒』ゆうんは俗信でな。実際の毒キノコで鮮やかなんは、かの有名なベニテングダケだけなんやで? 縦に裂けるってのも迷信やしな。でもって、こいつは……」
芝居がかった仕草で指し示す。
「少なくともベニテングダケやないことは確かや。したら、裏を返せば派手な色のこいつは毒やない、てぇことになるやろ」
どうだ。
胸を張る私に、火村は軽く肩をすくめた。
「そういうのは、いわゆる屁理屈というんじゃないかと思うがな。言っとくが、お前がそいつを採って帰っても、俺は食わねぇぞ」
「なんや、冷たいやっちゃな。死ぬ時は俺ひとりで死ねちゅうことかい」
「骨ぐらいは拾ってやるさ」
いつものくだらないやりとりだ。互いに遠慮のない、こんな軽口の応酬が、実はけっこう楽しかったりするのだから困りものである。
数歩先行して角を曲がった私は、そこで思わず歓声を上げていた。
「火村、火村! はよ来てみぃっ」
バタバタと手を振りながら背後へと呼びかける。
そこから先は、紅葉の林になっていた。
紅葉 ――
『こうよう』ではなく『もみじ』である。
植物学上は楓と言うのが正式名なのだが、ここはやはり俗称の紅葉を使いたい。
先端が五つに割れた、蛙の手、すなわちカエデと表現される葉が、一杯に視界を埋めている。あまり高くなる樹だとは思っていなかったのだが、見上げるほどの大きさのそれが、ずっと先の方まで立ち並んでいた。どれもこれも、見事に『こうよう』している。
秋になると、夜間の急激な冷え込みや地中水分の減少、直射日光の強さなどの条件が揃うことにより、木の葉と枝の間に離層ができ、水や養分を運ぶ管が閉ざされる。そして葉内に残された糖分が消費され、赤い色素、
花青素を生成することで、葉は鮮やかに色づくのである。
そんな解説がふと脳裏をよぎったが、口に出すのはやめておいた。そのような風情のないうんちくなど、この見事さの前には無用の長物でしかない。
「すげぇな。真っ赤だ」
「せやろ?」
追いついてきた声に、身体ごと振り返る。
と、どきりとした。思わず凍り付いたように全ての動きが止まる。
紅く色づく木々を背景に、立ち尽くす火村の姿。
そのシャツのおもてに、転々と朱の色が散っていた。持ち上げて見下している掌にもまた、潰れたように真紅の色が広がっている。
全身を、朱に染めて立つ彼。
表情は、影になっていてよく見えなかった。
「……ひ、むら……?」
とっさに漏れた声は、我ながらおかしな響きを持っていた。
―― いつか聞いた、夜毎襲う彼の悪夢。
想像するしかなかったその光景が、突如目に前に現出したような錯覚を覚えた。
呼びかけに、火村が顔を上げてこちらを見る。
「綺麗なもんだな。ほら、裏まで赤いぜ」
そう言って、手にしていた葉の軸をくるくる回してみせる。
どこか子供じみたその仕草に、私はちょっと呆れて詰めていた息を吐き出した。
「紅葉が赤いのは当たり前やろが」
そんなことを言いながら、火村の方へと戻っていく。
そら、と顔の前に突き出された葉は、落ちたばかりのものらしく、まだみずみずしさを保っていた。黒くさえ見えるほどに深く、そして澄んだ濃い紅色だ。
上を見上げれば、重なり合う枝葉を透かし、木漏れ日が降り注いできている。それもまた、どこまでも透明な赤い光。
間もなく訪れるつらく、厳しく、そして無彩色な冬を前に、彼らは最後の命を色鮮やかに燃えたたせている。翌春には、新たな命を甦らせはするけれど。それでも……
どこか、哀しいまでに鮮烈な ――
気が付くと、我々は無言で梢をふり仰いでいた。その足元に、肩に、さらに何枚もの葉が舞い降りてくる。
手を伸ばし、火村のシャツについた葉を取った。そうして振り返った彼に笑いかける。
「婆ちゃんに持って帰ろ」
そんなふうに言うと、彼も口元をほころばせた。
「そうだな。たかが二三枚じゃ、とてもこの見事さには及ばないが」
「ええやん。きっと喜ぶで」
言いながら、火村にまとわりつく朱の色を取り除いていく。
後から後から降り注ぐそれらに、私の手はすぐいっぱいになってしまった。
「おい、どんだけ持って帰るつもりだ?」
「二三枚じゃおっつかんってったのは君やないか」
「多けりゃいいってもんじゃないんだけどな」
「やかましいわ。君も手伝え」
促すと、ひとつ肩をすくめた。それでも素直にあたりを物色し始める。
「これだけ落ちてると、選ぶのも一苦労だな」
呟く。
あたりの地面は、積もった葉で一面が絨毯のようになっている。
地面を見ても、空を仰いでも、そして大気すらもが紅く染まる世界。
―― 彼の夢を彩る赤が、いっそこの紅葉のそれであればいいのに。
手の中の葉を見下ろして、そう思った。
深く、澄んだ、哀しいまでに透明な
―― けれどどこまでも美しい真紅。
せめて、今宵一晩だけのことでも、と……
* * *
ほとんど自棄になって拾った膨大な量の落ち葉を、婆ちゃんは呆れもせず、綺麗やねぇと笑いながら受け取ってくれた。
そして、数日後。
火村を通じて渡されたのは、とりどりの台紙を使って作られた、色鮮やかな栞だった。
商売柄、いくらあっても困るものではないし、火村も何枚かもらったようだった。その後ときおり、積んである資料の端から覗いているのを見かけた。
そして今でも、開いた本の中に色褪せた赤を見つけるたびに、私の脳裏には鮮明に甦る光景があった。
頭上から降り注ぐ赤い光の中で、全身を斑に朱の色に染め、立ち尽くす男の姿。
ひっそりと、音すらも無く。
まるで一服の絵画のようなその情景を、
おそらく私は、一生忘れることがないだろう。
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