―― たまにはお前もうちにも来い!
暇を見つけてはアルコール持参で人の部屋にやってくる年上の友人が、ある日いきなりそんなことを言い出した。
陽気でおおらかなこの男は、一度言い出したら人の話など聞かないところが、どこか懐かしい仲間達に通ずるものを感じさせる。
「どうだ、旨いだろう! うちの女房が作る料理は絶品だからな!」
「……グスタフ」
でかい手のひらで背中をどやされて、ハインリヒは思わず咳き込みそうになった。
いかに彼がサイボーグだとはいえ、タイミングというものがある。どうにか口の中の物を呑み込んで、じろりと相手の顔をにらみ返した。
そんなハインリヒへと、卓の向かいに座る女性が申し訳なさそうに声をかける。
「粗末なものばかりで、申し訳ないですけど……」
見事な金髪を背中に垂らしたその美人は、一体この男がどうやってと、新しい職場でもひそかに噂されている、グスタフ自慢の妻だった。ほっそりとしたはかなげな雰囲気をまとっていて、実際あまり身体が丈夫な方ではないらしい。
「いえ、とてもおいしいです」
お世辞ではなくそう言うと、彼女はほっとしたように微笑んだ。
「よろしければお代わりはいかがかしら。量だけはありますから、遠慮なくおっしゃって下さいね」
「ありがとうございます。それじゃあ」
うなずくと、水仕事に荒れた手を伸ばし、ハインリヒの皿を取り上げる。
「おかーさん、アタシもおかわり!」
グスタフの娘が元気良く言った。
こちらはまだ5、6才の可愛い盛りである。母親似のブロンドと大きな青い瞳が、まるで人形を思わせる少女だった。もっともこのお人形さんは、口のまわりをソースでべとべとに汚していたが。それでもなお愛らしく見えるのは、やはりその目が生き生きと輝いているからだろう。
「そいつがすんだら、俺にも頼む」
「はい、あなた」
夫の言葉にも、彼女は優しく応じる。
視線を交わすその二人の、穏やかな表情。
そこにあるのは、互いを深く想いあい、幸せに生きる家族の姿だった。
彼らの生活は、お世辞にも裕福なそれとは言えない。この国の就業率は相変わらず地を這う低さだったし、なんとか再就職が叶った彼らの賃金も、ごくごくわずかなものである。
今宵振る舞われたこの夕食にしても、素朴と言えば聞こえは良かったが、貧しさは隠しようもなかった。
―― それでも。
彼らを眺める己の目が、羨望の光をたたえていることを、ハインリヒは自覚していた。
狭い、賃貸住宅の一室。家具も少なく、火の気すら最低のものしかありはしない。それでもこの部屋の暖かさはどうだろうか。
子供の口元を拭いてやる母親。ビールを片手にそれを見守る父親。二人の間で楽しげに笑う子供。
もしも、あのとき亡命に成功していたら……
己もまた、得ることができたかもしれない光景がそこにある。
そんなふうに考えることは、いまも変わらぬ痛みを胸にもたらしたけれど。
この家族が失われなくて、本当に良かったと。
あの雪山で彼を救うことができたのを、ハインリヒは心から嬉しいと思っていた。
たとえそれが、この身に与えられた忌まわしい能力あってこそのものだとしても……
* * *
玄関から安アパートの廊下へ出ると、凍りつくような冷気が足下からはい上がってきた。
グスタフがうなりながら襟元をかき合わせる。
「風邪ひくとまずいからここで良い」
「お前こそ、そんな薄着で大丈夫なのか」
「ああ、寒さにゃ強いのはお前も知ってるだろう」
小さく肩をすくめ、相手の胸を叩いてみせる。
「じゃあ、おやすみ。夕飯ごちそうさん」
「気をつけて帰れよ」
と、言い交わすグスタフの後ろから、彼の娘が顔を出した。
おや? と見下ろした二人の前で、少女はにこりと笑って手を振る。
「お前もお別れ言いたいのか」
「うん」
うなずいた少女に、ハインリヒは穏やかに目を細めた。
「おやすみ、小さな
お嬢さん」
手袋をはめた手で頭を撫でられた彼女は、嬉しそうにハインリヒを見上げる。
「うん。おやすみなさい。またごはん食べにきてね、アルおじちゃん!」
元気良く口にされたその呼称に、ハインリヒはしばし言葉が返せなかった。
「あ、ああ……」
かろうじてうなずいた彼の横で、グスタフがにやにやと意地の悪い笑みを浮かべている。
ちなみに彼は、三十代の男からおっさん呼ばわりされたことを、ひそかに根に持っていたりした。
おじさん……おじさんなのか俺は。いや俺はまだ三十だぞ。そうか、子供にとっては大人なんてみな同じに見えるからな。
そんなことをぐるぐると考えていたハインリヒに、無邪気な少女は追い打ちをかける。
「おじちゃん、どうかしたの?」
「 ―― いや」
なんでもない、とかぶりを振って、ようやく彼はいとまを告げた。
……今度ジョーかジェットが訪ねてきたら、絶対あの子に引き合わせてやるとしよう。
彼女の目にはきっと、彼らのこともおじさんに映るに相違ないのだから。
夜道を帰途につくハインリヒの胸中に、そんな決意が宿っていたとかいないとか。
だがその真偽は、彼にしか知るよしもないことであった
――
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