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 月の刃 海に風 3
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
 
神崎 真


 いつもよりもかなり早い時間にたたき起こされたジルヴァは、まだうす暗い甲板で目の前のものを見下ろしていた。その顔色がいささか悪いのは、なにも寝不足のせいばかりではない。
「……なんだって、今朝まで気づかなかったの」
「面目ねえです」
 かたわらで身を小さくしているのは、昨夜の見張り担当だった甲板勤務の若者だった。
「ほかの片づけを優先させた、俺の責任でもあります」
 無表情のまま低く告げたのは、黒髪を首の後ろで結んだ壮年の男 ―― 弓使いのコウだ。戦闘ののち、汚れた甲板の掃除や壊れたものの修理などを指揮していた彼は、部下を庇うように一歩前へ出る。
 膝をついて水樽を調べていたトルードが、かぶりを振って顔を上げた。
「外側だし、あの騒ぎじゃちょっとやそっとの水音なんて聞こえないでしょ。こりゃ仕方ねえですって」
 一同が取り囲むようにして眺めているのは、甲板の隅に据えられた幾つかの樽だった。中身は真水、だった。一昨夜から昨日にかけての大時化の際、貯めた雨水をつめておいたものである。それを今朝になって料理当番が使おうとしたところ、空っぽになっているのに気がつき仰天したという次第だった。
「全部やられたか」
 ユーグが並ぶ樽を順繰りに叩いていく。どれも乾いたうつろな音を響かせた。どうやら昨日の戦闘で船同士がぶつかった際、船縁の隙間からやられたらしい。忙しさにとり紛れ、船倉に運び込むのをおこたっていたのが災いしていた。おかげでせっかく補給できた真水がぱあである。
「残りの水はどれぐらいある?」
 ジルヴァの問いかけに、料理長兼船医でもあるタフが渋面になった。白いものの混じり始めた顎髭を撫で、うなり声を洩らす。
「そうですな。切りつめて……二日分ってとこですか」
「はあ!?」
 とたんにトルードが飛び上がるようにして立った。
「待てよ、おとといまでは節約すれば一週間はもつって言ってたじゃないか」
 興奮してつめよる青年をとどめたのは、船長のジルヴァだった。
「ごめん、原因の半分はこっち」
 片手を上げて申告する彼は、後ろめたげに視線を伏せ、ほのかに頬を染めていた。そんなジルヴァをたて抱きにしたガイも、あーとか言いながら鼻の脇を掻いている。
「……と、いうと?」
「その、髪を、ね」
 長旅で水が不足するにつれ、一日に使える水の量は少なくなってゆく。今回は次の港までどうにかもつ程度残されてはいたが、それでも飲料水としての用途がほとんどで、あとは何日ものあいだ顔や手足を拭うのがせいぜいだったのだ。
「そういえば、洗濯してたやつも何人かいましたっけね……」
 ユーグがひとりふたりと思い出しては指を折る。
 大量に真水が補給できたからと、昨日はひさしぶりに贅沢な使い方をしていたのだった。
 さらさらと揺れるつややかな銀髪を眺めた一同は、なんとも言えない表情で肩を落とした。
「っくしょ、こんなことならあの海賊どもから水もぶんどっときゃ良かったぜ」
 トルードの台詞は全員の内心を代弁したものだったが、今さら言ったところでどうしようもない。
「とにかく、近くに水を補給できる場所がないか調べてみよう」
 ジルヴァの提案にみながいっせいに首を上下させた。


 操舵室は一段高くなった後甲板の上、帆柱を除くと船でもっとも高い位置に設けられていた。ここにあるのは他に便所だけで、船長室と炊事場は後甲板の下、通常の甲板と同じ高さに存在している。その他の船員達が寝起きする部屋は船腹にあったが、倉庫の一角をいくつかに区切って棚状の寝台を置いてあるだけで、下級船員や臨時雇いの水夫達は、基本的に倉庫か甲板で雑魚寝するのが普通であった。倉庫には甲板の前後にある跳ね上げ戸から降りられるようになっている。水樽も本来ならばそこに運び込まれるはずだったのだが。
 ジルヴァは操舵室の卓子に海図を広げた。何種類もの筆跡でびっしりと書き込みの為されたそれは、この船に積まれている荷の中でももっとも貴重な財産のひとつである。経験を積んだ船乗り達が、長い年月をかけて見聞きし記録してきたそれらの情報は、生半なことで手に入れられるものではない。
「現在位置がここ」
 ひとり椅子に座ったジルヴァが、迷いなく海図上の一点を指し示す。
 通常太陽の位置や現在の時刻、速度や進行方向などをもとに計算して出すはずのそれを、彼はまるで自明の理であるかのようにぴたりと断定した。
「風向きは南南東から七、これは午前の早いうちに東にまわる。潮流がこっち向きに流れてるから、進路を変えるならここからここの範囲内が望ましいね」
 ほっそりとした指が海図の上をすべる。卓子を囲んで立つ面々は、真剣な眼差しで指の動きを追っていた。
挿絵3
「二日以内にたどり着けそうな島は、幾つかありますな」
 代表してユーグが口を開いた。が、その声はお世辞にも明るいとは言えない。
「ですが、水場の印はない」
「そう」
 海図には無人島とおぼしき小さな島々も無数に記されていた。その中のいくつかには水場の存在を示す印や、そのほか海鳥が多く食糧補給に向くとか、切り立った崖が湾を形成しているため暴風雨からの避難場所に良いなどと、航海をする上において有益な情報が追記されている。
 しかしいまの彼らが行けそうな島々には、どれもそういった書き込みはなされていなかった。
「けれど、それで何もないとは決めつけられない。このあたりはひどく半端な海域だ。あと五日も進めば次の港にたどり着ける以上、こんな場所で補給を必要とする船なんて、めったにないからね」
 これまで立ち寄った人間がいなければ、なにひとつ情報がなくても不思議はなかったし、また逆に言えば危険を示す注意書きがないのだとも解釈できる。
「さて、どうする?」
 ジルヴァがぐるりと全員の顔を眺めわたした。
「進路を変えればそれだけ時間を食う。港につくまで一週間にはなるだろう。まっすぐ港を目指し、二日分の水でどうにか五日をしのぐか、それとも水があることを信じて島へ向かうか」
 この場でもっとも年若い人物の言葉を受けて、一同はしばし無言で海図を見下ろしていた。そこに記された小さな島を、幾つもの目がまじまじと注視する。
 やがて、コウが口を開いた。
「船長の、考えは」
 こういった場で発言することは滅多にない彼の言葉に、全員が顔を上げ、ジルヴァへと注目した。
 若き美貌の船長は、集中する視線に気圧された様子もなく、ただわずかに口元をほころばせる。
 海図へと視線を落としたその目元に、長い睫毛がほのかな影を落としていた。淡い色を宿した唇が、静かに動いて言葉を形づくる。
「そう、私なら ―― 」


 やがて、水平線に太陽が昇り昼番の者が深夜番にかわってそれぞれの位置についたとき、彼らは上司にあたる人物から、水の節約を再開することと、そして進路の変更を告げられた。
 目指すは、名もなき小さな無人島。
 昨日に引き続き雲ひとつない蒼穹は、いっそ残酷なほどに明るく青く、晴れわたっていた。


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