月の刃 海に風(改訂前)
 ― Makoto.Kanzaki Original Novel ―
(2005/02/02 15:05)
神崎 真


 最初に目を奪われたのは、その瞳が持つ輝きの強さ故だった。
 今にも振り下ろされようとする、鋭い刃をもまっすぐに見すえ、無力な身体でそれでも最期の瞬間まで諦めようとせずにあった、その横顔。

 気がついた時には広げていた翼。
 舞い散る羽毛を浴びて、驚いたように見上げてくる表情は、ほんの一瞬前のそれとはうって変わった、子供っぽいとも呼べるそれで。

「 ―― 怪我は?」

 そう問いかけながら、ひさしく動かすことを忘れていた顔の筋肉が、自然と緩んでゆくのを、どこか他人事のように感じていた。


◆  ◇  ◆


 着飾った人々に贅沢な調度、そして豪華な料理と音楽とに満たされた広間ホールでは、そのきらびやかさにもまるで引けを取らない人物が、ゆったりとくつろいでいた。
 絹張りの寝椅子に全身を預け、傍らに置かれた卓子テーブルから果実酒の杯を取り上げる。精緻な細工を施された玻璃製のそれが既に空になっていることを確認して、その人物はちらりとこちらに視線を飛ばしてきた。
 はいはい、と。
 背後に控えていた青年は、声には出さずにそう返答して、毛足の長い絨毯へと膝を落とす。
「どうぞ」
 揃いの水差しで酒を注ぐと、微かに杯を揺らすことで、もう良いと告げてきた。一礼して水差しを置き、元の位置へと身を戻しつつ、ついでに手元へ落ちかかっていた長い銀髪の一房を、そっと背中の方へ流してやる。
「 ―――― 」
 髪を梳く指先が頬の近くをかすめても、相手は眉ひとつ動かそうとはしなかった。
 ただ物憂げに杯を口元へと運び、唇を濡らす程度に酒を含む。
 特に機嫌が悪いというわけではなかった。船を離れているときの彼は、たいていこんな感じである。取引先で見知らぬ相手の視線にさらされているときは、特に。
 すでに宴が始まってしばらく時間が経っていた。ひととおり空腹を満たした客達は、次なる精神的な飢えを満たそうと、好奇心溢れる目を向けて来つつある。
 滅多に訪れることない異国の商人、しかも女性とも見まごう美貌の青年が客人とあっては、興味を引かれるなと言う方が無理な話だろう。本来ならば宴が始まると同時に質問攻めにあっているところだ。
 だが親しく声をかけるには、あまりに近づきにくい雰囲気を彼は醸し出していた。
 冷たい、というのとはいささか異なっている。あえて表現するなら、あまりに浮世離れしていると表現するべきだろうか。
 ほっそりとした華奢な身体を、複雑な刺繍の施された異国風の長衣でゆったりと包み、肌があらわになっているのは指の先と首から上だけ。しかもその肌は船乗りにあるまじき、日に焼けた形跡のない透きとおるかのような白さを持っている。同じく潮風にさらされているとはとても思えない艶やかな銀髪が、流れるようにその上体を覆い、先端がクッションの上で渦を描いている。
 滑らかな頬の線に、ほんのりと色づいた形良い唇。筆で描いたかのような弓形の眉の下、伏し目がちの瞳は白銀の睫毛に囲まれ、深い紫水晶の色をたたえている。
 わずかに上体を動かすと、耳や首元を飾る装飾品が揺れ、しゃらりと涼やかな音を立てた。
 物憂げに目蓋を下ろし寝椅子にもたれかかるその姿は、どう見ても商人などには見えない。むしろ親善に訪れた異国の姫か、あるいは貴族の同伴してきた愛妾か、そうとでも言われた方がよほどうなずける風情だ。
 ……よくやるよなあ、実際。
 などと、背後に立つ青年は内心で呟いていた。日常間近で本性を見せつけられている彼は、その化けっぷりに呆れざるを得ない。いくら必要に迫られてとはいえ、よくぞここまでできるものだとしみじみ感心する。
 もっともそんな彼の存在もまた、場の空気を形づくるのに一役買っていたのだが。
 美貌の青年 ―― ジルヴァとは裏腹に、良く焼けた褐色の肌と鍛えられた大柄な体躯を持っている彼が、眼差しひとつで甲斐甲斐しく世話を焼くその様は、普段人を使うことに慣れた上流階級の人間達から見ても、ひどく倒錯的なものを漂わせていた。
 彼らがいる一角だけ、まるで別世界であるかのように異なる空気が存在している。
 貴族夫人とおぼしき年嵩の女性が、扇の影で熱い吐息を洩らした。会場のそこここから似たような嘆息が聞こえてくる。そのことに気づいていながら、彼らは特に目を向けることもせず、ただ壁際で彼らだけの時を過ごしていた。
 侵しがたいその空気を乱したのは、足早に近づいてきた給仕の若者だった。壁際を目立たぬようにやってきた存在に気付き、背後の青年がそちらへと注意を向ける。そして戸惑うように数歩手前で立ち止まった相手へと、促すように長身をかがめてやった。
「あ、あの。こちらを言付かって参りました」
 盆に乗せて差し出されたのは、二つ折りにされたカード。取り上げて広げれば、最初に目に入るのは三日月に妖精をかたどった商標マーク
 流麗な筆跡に目を走らせ、そのまま懐へと落とし込んだ。そうして寝椅子へとかがみ込む。
「……ユーグから」
 耳元に、囁くような声音で副船長の名を吹き込む。
「なんて」
 銀髪の青年は杯に落とした目もあげぬまま、小さく問い返した。
 唇すらほとんど動かされぬそれに、美辞麗句で婉曲に覆い隠されていた内容を端的に要約する。
「交渉決裂。すぐ戻れ」
 その言葉に、紫水晶の瞳が鋭い光を宿した。抜き身の刃にも似たその輝きは、しかし伏せられた長い睫毛に隠され、誰の目にも映ることはない。
 ほっそりとした手が、優美な動きで杯を置いた。そうして彼は、背後を振り返り、当然のように両手を差し伸べる。

 一瞬、広間が静かにざわついた。

 おつきの青年に抱き上げられたジルヴァは、集中した視線を受け止めると、あでやかに微笑んでみせる。先ほどまでのけだるげな表情とはうって変わったそれに、貴婦人達は無論のこと、男性諸氏までもが息を呑み頬を赤らめた。
 たった一瞬の笑みで広間中の人間を魅了したジルヴァを抱えたまま、青年は軽く一礼して足早に広間を出てゆく。背筋を伸ばし規則正しく歩む足取りは、最初は早めに、やがて駆け足にも近いそれになっていた。
 長い廊下を数度曲がり階下へ下りる階段が視界に入ったところで、しかし彼は唐突に歩みを止める。
「失礼ですが、広間にお戻り願えますでしょうか」
 狭いとは言えぬ廊下をふさぐようにして、数名の兵士が行く手を阻んでいた。構えてこそいないものの、手にした槍の穂先が剣呑に輝いている。
「気分が悪いので、夜風に当たらせていただきたいのですが」
 ジルヴァが口を開いた。
 高く澄んだ中性的な声が、鈴を鳴らすような響きで大気を震わせる。それだけで芸術的とも呼べる美しい声だったが、しかし兵士達の心を動かすことはできなかったようだ。
「お戻り下さい」
 重ねて告げてくる彼らに注意を残しつつ背後をうかがうと、そちらにも同じような兵達の姿。完全に退路を断たれた形だ。
「私どもはこちらの御主人と、対等な取引をさせていただいているはずですが」
 この国では、客人ゲストに対しこのような扱いをする風習がおありですか。
 前と後ろ、両方の兵士から遠ざかるように、じりじりと壁際へと後ずさってゆく腕の中で、ジルヴァは皮肉な口調でそう続けた。後ずさった背中が窓枠にあたり、そこで動きが止まる。もはや逃げ場はなかろうと確信した兵士は、慇懃無礼に頭を下げる。
「そのような話は、後ほど領主となさって下さい」
 その頭頂が寂しくなりつつあるのを見ながら、青年が小さくため息を落とす。
「だってさ。どーする?」
 場にそぐわないあっけらかんとした口調に、兵達がいぶかしげに眉をひそめた。
「決まってるだろ」
 さらに発せられたぞんざいな台詞は、紛れもなく眼前の美貌の青年によって紡がれたそれだ。
「逃げな、ガイ」
 無造作に命ずる、声。
 はっと我に返った兵達が槍を構えるより早く、ガイと呼ばれた青年は窓枠へと飛び乗っていた。人ひとり両手に抱えているとは思えぬ軽い身のこなしに、兵達は完全に後れをとる。
「ま、待て! 死ぬ気か!?」
 彼らが絶叫するのも無理はない。
 ここは地上三階、しかも景色を楽しむため海に面した崖ぞいに立てられた建物の中で、地上まで数十階分ではすまされない落差が存在するのである。窓の下は目もくらむような奈落。一歩足を踏み外せば、確実に、死ぬ。
 血相を変えて止めようとする兵達を尻目に、青年は心底楽しそうに笑っていた。

「アイ・サー、船長キャプテン!」

 窓枠を蹴ると同時に、バサリと風を切る羽根の音。
 沈みつつある夕日を受けて、数枚の羽毛が風に乗り飛び散った。
 その背に猛禽の翼を広げ、有翼人種の青年が羽ばたく。その両腕に抱えられるのは、銀の髪をなびかせた傾城の ―― 一見 ―― 美女

 為すすべもなく見送る兵達の視界に、三日月に妖精をかたどった旗を掲げる帆船が映る。白波を蹴立てて入江を近づいてくるその船は、冒険商人ジルヴァを船長とするモーフリシュ商会の持ち船だ。


◆  ◇  ◆


「まったく、当分あの島には行けないんじゃないか?」
「ちゃんと代わりの取引先は見つけてあるから大丈夫」
「だったら最初から招待なんか受けなきゃ良いだろうに」
「商売ってのはそう単純じゃないの。取引を断るには、ちゃんと正当な理由をつけなきゃならないんだから」
「そういうもんかね」
「そういうもの。ま、ガイは商売の事なんて気にしなくて良いから」
「はいはい。俺はお前の世話だけ焼いてるよ」
「……不服?」
「いーや、むしろ大満足」


◆  ◇  ◆


 自由交易都市にその名を残す、冒険商人ジルヴァ。
 優れた航海術と先を見る目に長けた商取引により莫大な財産を為した彼は、しかし生涯船を下りることなく、一商人として取引の現場に身を置き続けた。
 その傍らには常に有翼人種の青年が付き従い、若い頃に足を痛めた彼の万事を補佐していたと伝えられる。女性とも見まごう美貌を持った船長の、同性の情人であった、またあるいは奴隷として飼われていた、莫大な借金を肩代わりされたが故の終身奉公だったなどと様々な憶測が為された両者の関係だったが、しかし同じ船に乗る者達は、問われるたびにただため息をつき、無言でかぶりを振るにとどめていたという。


 ―― その沈黙の裏側に『世話好きにも限度ってモンがあるだろ普通』とか『一歩間違えりゃ立派な変質者ストーカー』、『いっそくっついてくれてりゃ説明もしやすいのに』などといったぼやき声が隠されていたことを、知る者はもはや誰もいない。


(2005/02/02 21:45)



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